ぎって千世子の云う事がはっきりと頭にのこって行った。
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「ネエHさん、貴方この頃の文学をどう御思いになります? 私なんかあんまり放縦なしだらのないもんだと思ってますけど。近世文学なんて私大嫌です。だから此娘《コレ》にもかぶれたりなんかしてはいけないって云って居るんです」
「中々むずかしい事ですネエ」
「斯うなんです。こないだ私がネ、ダヌンチオの『死の勝利』をよんでたんです、かして御らんておかあさんがおっしゃるからかしてあげたら『こんなものがこの頃はもてはやされるのかネエこんな事を書いてさ、だからこの頃の文学はいけすかない、第一かいて居る事からしていや味でサ』って云ってらっしゃったんです、だからそれででしょう?」
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 千世子は話があんまり前とつづきのないどう云う事からそんな話が起ったんだかHにわかりそうにもなかったんで説明した。
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「ああそれでなんですか。私になんかよく分りませんけど、生活状態が段々複雑になって行くにつれてすべて行われる日常の事が段々色で云えば濃い色になって行くらしいんです、犯罪と云う事もぜいたくさでもなんでもがたしかにそうだと思えます、そして人間の心理状態がこまっかい切子のガラスの様になって行くんです、だから感情は益々鋭敏になる筈で、感じる事書く事が皆色の濃い鋭いつっこんだものになって行くんです。従ってかなり古い時に生れた私達には想像する事の出来ない感情、事柄が文学の上にも現れて来るからあんまりあけっぱなしの様に思われたり刺撃がつよかったりするんでしょう……」
「そうでしょうかねえ、あの何とか云う人の『死の勝利』なんてまるで道徳を無視して居るじゃありませんか、それにサ、恋した女なら夢中で恋して居ればいいじゃありませんか、それだのにあんな自分の女をあっちこっちからのぞいてサ、一人でうれしがったり怒ったり、若い娘のよむはずの第一ものじゃないじゃありませんか」
「あの時もそう云ったんですけどネエ」
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 千世子はいくたび云っても甲斐のない事だと云った様な少しはなにかかった声で云った。
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「文学なんて云うものは道徳の上から見てもどっから見ても欠点のない、どんな人にでも見せてさしつかえのないものならそれはほんとうにととのったものには違いありませんけど、人間にはそう[#「そう」に「(ママ)」の注記]人はありにくいもんですものねえ、そいで又人には各々の特別な感情なり性質なりをもって居るもんですもの中々そう云う風には行きませんわ。孔子様の伝を書いても耶蘇の一代記を書いても、そりゃあ材料は欠点のないものですワ、どっから見てもネエ、けれ共、それを書いた結果が不成功だったら、ほんとうの純文学の価値はないでしょう。孔子の文を書いて出来の悪かったより、弁天小僧を書いた方が立派に出来て居たらその方が価値のあるものになるんです。泥棒をするんでもそのする時の感じがあります、他人の奥さんをよこどりする時にだってそれについて特別感情はあるにきまってますよねー、だからそう云うこまっかい感じをよくうがって字に書いてある感情が自分の心に入って来て自分の感情になってしまいそうになるほどに書いてあるんなら立派な創作として見る事が出来ます、そうでしょう、感じのよく出て居る文、考えさせられる深刻な文と云うのが純文学だと思ってます、そう云う事はほんとうにむずかしい事ですもんねえ、近松物を道徳の上から娘には見せられないものであっても純文学としては価値のあるもんですものねえ、私はどうしても純文学としての価値のあるものをよろこんでます、けど阿母さんは私の云う事は大不賛成なんです。けれ共私はそう思って居ます……」
「私はどっちをどっちと云いかねますねエ、近頃の小説は一寸もよんで居ずそれについて又深く考えた事もないしするんですから、ちょっくらちょいとは云いきれないものです、……」
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 Hは何か深く考えながら低い声で云った。千世子はそのはっきりしない答えが気に入らなかった。
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「じゃあんたはどう思っておいでなさる? 私の様にか阿母さんの様にかそれとも又別の……」
「私はごく平凡な事を思ってます。あんまり常軌を逸して居なければそんなにああこう云いやしません、世の中の事ってのは或る程度まで人なみにやって行くことが心要なんですから……」
「そう云うお考えなら私と阿母さんの間に入って好いお考えなんですねエ」
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 千世子は頭のすみに今日一日中考えた事のかすがたまってでも居る様に重い片っ方にかたむきそうに思われて来た。時計はもう二時すぎをさして居た。阿母さんは自分で話の問題を出して置きながらすみの椅子によっ
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