あありませんか」
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って自分の云った事を思い出した。
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「どう云う点から云っても彼の人の年になっては奥さんがなくっちゃあ可哀そうだけれ共――」
「あの人はまだごくの若い心で居た時に思いがけない苦い悲しさを味わったから結婚なんて事を只感情的に考える事が人並より出来にくくなって居るんだ!」
「でも私はあの人の生活に手をさわってはいけないんだ、そうすれば悪い事が大抵は起るにきまって居る」
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 こんな事を思って居た。
 千世子はたった一人の男のために自分の生活の状態が変調子になって来たり、こびりついてはなれない感じをうけるなんて事はこのましくないいやな事だった。
 いくら何と云ってもHがすきだと云う事ばかりは千世子のどんな心ででも打ちけして、
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「いやそうじゃあない」
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と思わせる事は出来ないものであった。今まで思いつづけて居た事を拭ってしまおうとする様に空に覚えて居るサロメの科白をうたの様な声で云った。
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「ヨカアンナや、あたしはお前の体にほれてよ! お前の体はまだ鎌の入った事のない野原の百合の様に真白だ。
 お前の体は山の上のゆきの様に――」
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 目をつぶっていつの間に身ぶりまでして居た千世子は後の方から来る足音のまだ若い男だと云うのをさとるとすぐにスウィッチをぱッともちあげて、あっけにとられて居る油じみた顔の男の前を斜によぎって部屋に入ってしまった。
 母親は千世子のかおを見るとすぐに、
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「あした若しかすると小供達と源さんとHさんが来るってさ、四時にここにつくって……」
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 いかにも嬉しそうな声で云った。
「そう――いい事ねえ、迎に行ってやりましょう」そんなでもないと云った調子に千世子は云った。
 よみかけの雑誌をもった母の顔を見て千世子は時と云うものを考えなければ居られない様な気がして居た。
 その晩は随分おそくなるまで母親は千世子に自分の若かった時の事、姑が辛かった事などを話して居た。姑の辛さなどは自分の生涯うけずといい苦しみだと千世子は信じて居た。
 翌日四時までの時間がかなり長く感じられた。
「Hが来るかもしれない」と云う事が千世子の好奇心をそそった。
 割合にまち、割合によろこんだけれ共、電車から下りたのは小供達と源さんきりであった。
 子供達は母と小さい自分の弟をとり巻いて、こないだのひなのかえった事からバラの一輪さいた事から私の部屋に鼠の出る様になったとやら障子の破けのふえた事まで話してきかせた。
 母親は笑ってその報告をききながら一人一人の手をひっぱって見たり頭をこすって見たりして居た。
 今までにないにぎやかさではんぱな時候で客は沢山居ながらもしずかなこの家に高い笑声をひびかせて居た。四方をガラスではった娯楽室に皆丸くなってトランプをする、歌をうたう、千世子は少し調子の変なオーガンさえ弾いたほどであった。
 ここの家の小供は千世子の女なのに気をかねて居たのが、いかにもうれしそうに三人の弟の間に二人の子がはさまってほっぺたを赤くして居た。
 十二時頃までも皆で笑いどよめいて居たけれ共源さんが一番先に寝たのをしおに今日だけお客の小供達は下のひろい座敷に寝に行った。
 母は日記をつけ、千世子は短かい感想をかきつけたりして物足りないすきだらけの気持で床についた。
 次の日いっぱい砂の中をころげ廻った小供達は又源さんにつれられて東京に行った。行くまで源さんは千世子と二人っきりになりたい様なかおをして居るのを知ってわざと千世子はよけよけして居た。
 急に嵐のないだあとの様になった部屋の中に居られない様にはだしのまんま千世子は裏から砂をすべって浜に出てなめらかにひんやりする砂に座った。何と云う事もない悲しみは千世子の心の中いっぱいになって居た。
 こんなうすねずみの色の中にこんなこい色の自分の身体をひたして、こんな気持で泣いて居ると思う事はいかにもうつくしげななよなよしげなものであった。
 しみじみとホロホロ――ホロホロ――と散って行く涙の一粒ごとに思いをはらんで居る様に感じて居た。まるで幼子の様にわけもわからない事に泣きじゃくって居た。泣きながら千世子の心は悲しみながらこの上ない歓喜に小おどりして居た。
 夜つゆにしっとりと長い袂や肩のしんみりしたつめたさになった時千世子は顔いっぱいに笑いながら部屋にかえった。そうしてじきにねてしまった。
 三日たったのぼせる様な日に、千世子は十四になる男の子に誘われて一寸ある小峯の原に蓮花をつみに行った。その男の子は大抵の時は少しこごみ勝に下を見て神経質らしい額の大きな高い唇の馬鹿
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