った時台所でたすきがけで居た主婦は、
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「マアようこそ――ほんとうにお待ちして居たんでございますよ」
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と遠くの方から子供達をつれながら云って出て来た。
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「エエ又御やっかいになります、これが少し頭を悪くしましたんで……」
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 母親はこんな事を答えてお互に若い時から知って居る二人ははてしのない様におじきのしっくらをして居た。千世子は遠く青くひろがって居る海の面にすいよせられる様にその方ばかりを見て居た。
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「ほんとうにネエ、御可哀そうな、少し御やつれなさいましたネエ」
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と主婦が云って自分の顔を見て居るのを千世子は知って居てもそっちを向こうとはしなかった。
 先に来た時と同じ二階に座った千世子は気が遠くなるほど青い空と青い海の境が紫にかすんで居る事や、くだけるまっ白な波の様子、遠くひびいて来る船歌の声なんかがうれしかった。
 らんかんによっかかって千世子はいつまでもいつまでもその景色を見とれて居た。
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「着物をきかえて浜へ行くんだ、早くおし」
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 父親はこんな事を云って千世子の羽織を後からぬがせた。紫矢絣の着物に赤味がかかった錦の帯を小さな横矢の字にして赤い緒の草履をはいて千世子は深い砂を一足ぬきにして歩いた。
 若がえった様に父親は小石をひろってなげたり、小さい弟と一緒に波頭とおにごっこをしたりして居た。それをよそ事の様にして千世子は大きな自然の前にうなだれて居た。病み上りのふだんにもましてセンチメンタルになって居る千世子の心の底にドドーッドッドッという波音は厳とした威厳をもってしみ込んで行った。
 波のよせるごと引く毎に洗われる小石は、ささやかな丸い輝をお互に放して、輝きと輝きとのぶつかるところに知る事の出来ない思いと音律がふくまれて波の引く毎にはささやかな石がお互の体をこすり合わせうなずき合って無窮の自然を讚美する歌を誦して居た。
 千世子はこの微妙な意味深い音にききほれてしばらくの間は夢中に、それからさめた時にはこの音にききほれる自分が人間だと云う事は情ない事に思われた。
 暗闇の中に物をさぐる様に千世子はどこかにとけ込んでその姿をかくした自分の今まで持って居たほこりをたずね廻った。つかまるものもつかまるものも皆自然に対する感謝と云うものばかりであった。心の中、体の中を感謝のかたまりにして入日の赤くなった空と、満潮に青さのました水面を見まもって、尊い、ととのった芸術的な顔つきをして千世子は時の立つのを知らずに座って居た。
 海のひろい胸は刻々にその鼓動が高かまって行った。さっきまで修道女の様なその胸の様な鼓動を打って居た胸は、その一息ごとに世の中のすべての悲しみと嬉しさと幸と不幸をすい、又はく様にたしかにトキーントキーンと打ち始めた。青さはその鼓動の高まると共にまして行った。
 若い処女が若い男の息の下に抱きすくめられたその瞬間の様な海のはげしい乱調子な鼓動はそのトキーントキーンと云う音を空の末地球全体にひびかせて千世子の前にせまって来た。
 それに答える様に、千世子のうす赤いふくらんだ胸の鼓動も乱調子にやがては狂いそうにまで打った。けれ共千世子は動こうとはしなかった。水はすぐ前によせたり引いたりして白い歯を出しては千世子の心をほほ笑んで又遠い青さの中に混って行った。
「こんなにまで苦しいほど私は自然に感じて居る事が出来る」と思った。千世子は身をおどらして青さの中に身をしずめて見たいほどうれしかった。
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「アーアア」
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 堪えられないほどみちた心になった千世子の躰はキラキラとやさしげにまたたいて居る砂の中にうずまった。砂は四方からサラサラ、……サラサラと響きながら千世子の身体をうずめて行った。
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「アアアア」
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 かざりのないいつわりのない千世子の心の声はしずかな空気に小器用な音波になってドッかに消えてしまった。
 迎に来た女中にひっぱられて気ぬけの様な顔をして千世子は宿にかえった。
 海辺に来たらしい気持のする食卓についてからもまねく様な潮なりに心をとられてまっかな箸の先にまっしろな御飯を一つぶずつひっかけてたべたりして居るほどであった。
 夜はかなり暗いあかりの下でほこりっくさい都になぐさめる人もない様にして一日の仕事につとめて居なければならないHのところに絵葉書に短かいたよりをしてやった。
 白い被いをすみから隅までかけて気持の好い夜着にくるまって潮の笑声を子守唄にききなして眠った千世子は六時に起きるまでにHの夢ばかり見て居た。
 寝床から出
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