はなくて、その「血統が母系において――母権によって」辿られたこと、その結果、女子が重い尊敬をうけた女性支配を齎していたことを証明した点にあった。訳出されているのは序文だけである由だが、バッハオーフェンの思索とその方法と表現とのかかる古典的特色は満喫し得る。ギリシア神話と英雄伝とを日常生活の伝統に持っていない日本人にとっては、全く訳者の云われている通り訳すにも労多く、感情をもって理解するにも当然或る困難を伴うのである。同時に、今日の世界に生きている読書人にとっては、例えばギリシア人の間で母権から父権への推移が生じた原因を、バッハオーフェンの説明したように、宗教的観念の発達した結果新しい神々が旧いギリシアの神々の間にわり込んで来て勝利したからであると考えることも、亦不可能であろう。男女相互の社会的関係が歴史的な変化をうけて「女性の世界史的敗北として」の母権顛覆が起ったのは、バッハオーフェンがエスキュロスの悲劇の章句によって説明したように女神アテネが良人アガメムノンと良人の父とを殺害した母親クリテムネストラを殺して復讐した息子オレステスを無罪にしたことから由来しているというよりは、人間の現実生活の諸条件の発達に起因しているという今日普通の観察が、より現実の姿であることを承認せざるを得まいと思う。バッハオーフェンの労作の価値及びその訳出の価値は、疑いもなく、彼以後の七十八年間の人類文明の貴重な進歩は、彼によって印された家族に関する研究の第一歩を、いかなる具体的・現実的研究にまで推し出して来ているかという、正確にしてよろこばしき知識に照りかえされて、初めて真価を発揮するものと思う。
現代の婦人の翹望と努力とは、過去の或る時代に素朴に考えられていた平等化、男性化の方向とは全く反対に向っている。あらゆる女は、心から最も調和的に、最も人間らしい自然さで女らしく生きたいと希っている。花咲き溢るる女らしさの全幅をもって経済的にも精神的にも生き貫いて行くことを欲している。訳書の前がきの言葉にある通り「女子が活溌な生産的労働や仕事にたずさわって」所謂「貴女達《レディーズ》を包む弱々しい女性らしさとは全く別性質の」美しい自他ともに幸福な「独立の気風」で朗らかに生きることを望んでいる。しかも、現実においては、今日「女子の隷属の起り得ない」「原始女性は実にその活溌な労働性の故に独立的なのであり
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