・リヴォーヴナがまだ書付《ドクメント》を書いてくれないんです」
リザ・セミョンノヴナはちょっとだまりこんだのち、云った。
「なんとか云われたら、こうお云い。じゃなぜパーヴェル・パヴロヴィッチは自分の組合へ入っているんですかって――いい?」
ナースチャはつよく合点合点した。
けれども、ナースチャの本心はもうかわっているのであった。アンナ・リヴォーヴナにほのめかされた疑いが彼女の頭からのかなかった。ナースチャは主人をせきたてなかった。
十日ばかりして、またリザ・セミョンノヴナに同じことをきかれた時、ナースチャはむしろ不意に体のどこかを突かれたような感じをうけた。(まだ忘れないでいたか)ナースチャはとっさに不自然な熱心さでリザ・セミョンノヴナへこごみかかり訴えた。
「聞いて下さい。リザ・セミョンノヴナ、アンナ・リヴォーヴナは返事だけして承知しないつもりなんですよ。どんなにわたしが毎日毎日頼んでるか! 昨日だって、わたし一時間も云ったんです。そりゃあ一生懸命云ったんです」
だがリザ・セミョンノヴナは、彼女の綺麗で怜悧な水色の横目でナースチャの喋べくるのを眺めながら、膝を抱えて体をふりふり、彼女の鼻歌をうたいつづけた。
船が行く――
渦巻く水は
じきに気ずいに
魚を飼うだろう
ナースチャは、リザ・セミョンノヴナが自分を信じないことを感じた。
「どうしましょう? リザ・セミョンノヴナ」
リザ・セミョンノヴナは黙っている。
「ね、リザ・セミョンノヴナ」
自分の虚言《うそ》の見破られた意識から、ナースチャは困って泣きそうになった。
「ね、リザ・セミョンノヴナ」
ナースチャは不器用に手をのばして、リザ・セミョンノヴナの膝にさわって云った。
「悪く思わないで下さい」
リザ・セミョンノヴナは、それでもやっぱり黙っていた。
ナースチャがもらって来た書類は、二つ折になって食堂の棚の上にのったまま受難週間になった。
建物の中庭へ荷馬車が入って来た。そして、雪の下から現われた去年の秋からのごもくたを運び去った。黒い湿った地面が出た。人はまだ冬外套を着て往来を歩いていたが、日が当ると、中庭の黒い地面からはものの腐る温いにおいがした。それは春の匂いであった。日に数度借室のだれかが、中庭で絨毯をたたいた。張り渡した綱にたたいた絨毯を干して、建物のそばのベンチに子供をかけさせておいた。子供は犬と戯れつつ、あるいは建物の四階の窓からリボンをつき出している友達と声高にしゃべりつつ、絨毯の番をした。中庭の光景のあちらの空に芽ぐんだばかりの緑色に煙る菩提樹《リーパ》の大きな頂が見えた。煉瓦の赤い建物がそこにあるので、菩提樹の柔い緑色は一そう柔く煙のように見える。
アンナ・リヴォーヴナは借室《クワルチーラ》へ床磨きをよんだ。復活祭《パスハ》まで床磨き人は、権威ありげに口をきいた。ナースチャは洗濯をした。ふだんの洗濯のほかに、アンナ・リヴォーヴナが去年の復活祭から枕にかけたレースや、食卓覆い、カーテンを洗った。台所の外についている露台に石油焜炉《プリムス》を持ち出し、洗濯物をにては盥のなかでもむ。オルロフが、すべるように猫背でやって来た。台所の戸は、箒をつっかって開け放しだ。そこから露台に向って彼は、例の口調で、
「ナースチャ、いつお前の手がすくだろうかね」
ナースチャは、背を向けたまま答える。
「三時間かかります」
一年じゅうの洗濯をしてしまわなければならぬ。働きながら、時々ナースチャは石鹸水でふやけた手を露台の上からふって笑った。露台の上から、下の中庭越しに塀が見えた。塀のじゃかじゃか出た針金越しに別の建物の平屋の翼が見下せた。パン屋の仕事場がそこにあった。開いた窓に向ってパンこね台があった。白帽をかぶり、帽子ほどは白くない仕事着をきた職人が四人働いていた。ナースチャが去年の夏来た時にもそのパン工場がやっぱり見えた。間もなく永い冬が来てその窓は閉まり、やがて凍ってなにも見えなかった。
再び春だ。職人の顔ぶれが少しちがったとしても、それがなんであろう。彼らの一人は、露台にいるナースチャに向って手を振った。ナースチャは笑う。彼はそれを見て笑って、ナースチャにききとれぬことをなにか云う。ナースチャはまた笑う。一人別の職人が、パンのこね粉をむしって、なにかこしらえ、ナースチャに見せるように高くさし上げる。その時はみなの職人が仕事をやめた。笑って、がやがや云いながらナースチャの方を見上げた。仕事場の方は暗いし、第一遠いし、なんの形だかナースチャに見わけられない。彼女は手を振った。職人たちはまるではしゃいで笑いつづけた。
「ヘーイ、|娘っ子《ジフチョンカ》」
「ヒュー! ヒュー!」
畜生《チヨルト》! ナースチャはむっとして露台から引きこむ。しかし、翌朝戸をあけ、露台へ出る時、ナースチャは挨拶を用意しているのだ。
ナースチャは、夜十一時半までひのし[#「ひのし」に傍点]かけをした。最後のハンカチを終ったが、まだ火があった。ナースチャは今朝ほしたアンナ・リヴォーヴナの下着にひのし[#「ひのし」に傍点]をしてしまいたいと思った。けれども、建物の物干場は五階の屋根裏だ。しんとした階段と、物干場のがらんどうな湿っぽい大きさがナースチャを恐れさした。
ナースチャは、忍び足でリザ・セミョンノヴナの戸へ近づいた。戸から燈火が洩れている。ナースチャは、そっとたたいた。
「お入り」
リザ・セミョンノヴナは、まだ着物もぬがず、新聞から切抜をしていた。
「リザ・セミョンノヴナ、ごめんなさい、邪魔して。――わたし、物干場へ行かなけりゃならないんです」
ナースチャは云った。
「でも……こわいんです」
「なぜさ」
「一番てっぺんなんですもの、それに、もう夜で、暗くて」
「アンナ・リヴォーヴナにそうお云い」
「|神よ《ボージェ・モイ》! わたしぶたれます」
リザ・セミョンノヴナは急に両足で立った。
「さ、早く、早く!」
「ああ、ありがたい! リザ・セミョンノヴナ、あなたは本当に」
「いいから鍵とっといで、早く!」
ナースチャがさきに立って階段をのぼって行った。足音が、夜のコンクリートの壁に反響した。小さい夜間電燈が各階の踊場についているだけであった。
「ごらんなさい、リザ・セミョンノヴナ、こわいでしょう、わたし、この間、あっちの建物の翼へ泥棒が入ったって聞いているから、一人じゃ来られないんです」
夜じゅう、借室の下の入口の戸が開いているのは事実であった。木戸口は十二時にしまった。
リザ・セミョンノヴナは、
「なんでもない」
と云った。
「陽気じゃないだけさ」
物干場は五階目の登りきったところで、一つ、物干場の戸があるきりであった。上へ行く路はない。下へ、もと来た階段を下りられるだけであった。夜は凄い感じがした。ナースチャは、スイッチをひねってから鍵で、そのたった一つの戸を明け、自分とリザ・セミョンノヴナを入れたのち、堅くとざした。
床には砂がしいてある。いく条も繩が張り渡され、その三分の二ばかりに物が干してあった。天井は低い。隅になにかの樽があった。ナースチャは、裾飾りのついたアンナ・リヴォーヴナの下着を腕にかけて外へ出た。あとに麻の大敷布三枚、台覆い、パーヴェル・パヴロヴィッチの下着、さらに奥のところにナースチャの前垂、更紗の服、桃色の股引《パンタルーン》がさかさに繩からつる下っているのが、薄暗い電燈で見えた。
「それだけでいいの」
「ええ、あとは明日でいいんです。左側のは、よその人のです」
ナースチャは永いことかかって戸の鍵をしめた。
リザ・セミョンノヴナは、廊下の物音で目をさました。復活祭に、あと三日という朝だ。女の声がした。アンナ・リヴォーヴナの声がした。泣き声が聞えたような気がした。
顔洗いに行くと、台所の戸が開いていた。ナースチャがその真中に立って、しゃくり上げて泣いている。リザ・セミョンノヴナは、
「なにをこわしたの、ナースチャ」
ときいた。ナースチャは立っている場所を動かず、前垂をつかんだまま、顔から手をはなして答えた。
「干物をすっかり盗まれちゃったんです」
云ううちに、涙が眼からころがり落ちて、怯えたナースチャの頬を流れた。
「昨夜、あなたも見たあの干物を今朝までに誰かが盗んだんです」
リザ・セミョンノヴナは、腹立たしそうに、
「いつだって復活祭の前って云うと、ろくなことはありゃしない」
と云った。モスクワで一番盗難の多い季節なのであった。
「お泣きでない、ナースチャ、泣いたって出て来やしない」
「オイ! オイ! リザ・セミョンノヴナ、恐ろしい、わたしがいつ悪いことをしたのでしょう、アンナ・リヴォーヴナやマリア・セルゲエヴナは、わたしが盗んだって云うんです」
「お泣きでない、お前に二人寝台の敷布なんぞいらないのはみな知ってるんだから」
閉めきった食堂から、電話の音がした。ナースチャはしゃくりながらそれをきき澄した。
「アンナ・リヴォーヴナが警察へ電話をかけているんです。わたしのところへ犬をよぶんです」
リザ・セミョンノヴナが室へ戻ると、ナースチャは茶を運んで来た。彼女はもう泣いていなかった。リザ・セミョンノヴナが机の前に坐り、茶を飲んでいる間、ナースチャは、いくたびか黙ろうとしながら黙り切れず、訴えた。
「あの人たちは盗まれたものがあまり惜しいので、わたしが盗んだなんて云うんです。犬が来たって、わたしどこの隅でも、靴の底まで嗅がせます。平気だ」
ナースチャの涙がとまったが、昂奮でいまはかすかに胴ぶるいしているのが見えた。
「ただ、ね、リザ・セミョンノヴナ、わたしはもう八ヵ月近くアンナ・リヴォーヴナのところで働いた。アンナ・リヴォーヴナはわたしが不正直でもおいたでしょうか? それだのに、いまになって盗んだなんて云われるの、口惜しいんです」
リザ・セミョンノヴナは、苦笑いして、
「じゃ、わたしも犬に嗅がせなけりゃなるまい」
と云った。
「ゆうべ、一緒にあんなところへ行ったんだから」
「あなたは知らないけれど、オルロフは、いつだって机の上に細かいお金をばらで出しとくんですよ。なぜ? わたしは知っています。オルロフはわたしを試しているんです。わたし、指の先だってそんなお金にさわったことはありゃしない。――そんなにしたって、ふしあわせな人間には、ふしあわせしか来ないんです。――オイ! いまにどんなふしあわせが来るだろう――」
夕方リザ・セミョンノヴナは、鈴蘭の花束と、金色で細いリボン飾りのついた卵を買って帰って来た。狭い借室での復活祭の仕度だ。廊下で、アンナ・リヴォーヴナに出会った。すると挨拶もせず出しぬけに彼女は、リザ・セミョンノヴナに云った。
「今朝警察からあなたのことをききに来ましたよ、どうしたんでしょう」
「……そんなことをわたしが知るもんですか、アンナ・リヴォーヴナ」
リザ・セミョンノヴナは、ナースチャが茶を持って来た時、
「アンナ・リヴォーヴナは、盗まれた敷布が惜しくて、頭をおっことしてしまったよ、ナースチャ」
と云った。
「どうしたい、可愛い犬はよくお前を嗅いでってくれたかい?」
「ええ、アンナ・リヴォーヴナとマリア・セルゲエヴナは、わたしが盗まなかったのが不満なんです。ねえ、リザ・セミョンノヴナ。いまにどんなふしあわせが来るんでしょう。ちょうどわたしのところに鍵のあった晩に盗まれるなんてねえ。……盗んだ人間は、安全でわたしだけがこんな辛い思いをするなんて」
ナースチャは、急に憎悪に燃えた眼をして叫んだ。
「悪人奴! 悪人奴!」
往来では粉雪が降り出した。歩道の上を花売り男が両手に鈴蘭の束を持ち、
「新しい鈴蘭、きりたての鈴蘭、お買いなさい、五十カペイキ」
通行する年よりの女に近づいて、花束をつきつけた。老婆は買物籠の経木製の二本の百合の花を指さした。「ごらん! これを。いりゃしないやね」――アルバートの広場の赤白塗の古い大教会では、二人の男が鐘楼で受難金曜日の鐘を鳴らした
前へ
次へ
全8ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング