いくども胸に十字をきっては低く叩頭した。
それがすむと、台をもって来て、ナースチャは料理台にぴったりくっついて架けた。台の上で両腕を深く組み合わせ、その上に顎をのせ、自分の顔と同じたかさにある小さい聖像をナースチャはしげしげと眺めはじめた。――どうして、このキリストや聖者に眼も口もないのであろう。右の方に立っているのが、自分の聖者だと、ナースチャは子供のときから教えられた。だが、どこでこれが聖者ナデージュダだとわかるのだろう。目もなく、口もなく、それで自分を護ってくれることが出来るであろうか。ああ、しかし、キリストにだって眼や口がないではないか。
ナースチャは祈の文句も正式には知らず、不断信心しているというのでもなかったが、そうして、蝋燭の光に照らされる古馴染の小聖像を眺めていると、親しい休まった心持になった。思いがけない出来事で疲れ、泣いた心が、和らいだ。蝋燭の燃える微かな匂いも、いい心持だ……ふっと腕に押しつけている口の隅からよだれ[#「よだれ」に傍点]が出そうになった。ナースチャはいそいでそれを吸いこみ、また頭を下して頬ぺたを腕にのっけた。またたきする度にナースチャの睫毛《まつげ》をとおして、蝋燭のしんのまわりと聖像の面から短い後光が細かく一杯八方へさした。一つずつナースチャのまたたきがゆっくり重くなった。それにつれて後光は、蝋燭のまわりと聖像の面の上から次第に長く、明るく、顔の上にさして来るような気がする。ナースチャは溜息をついた。彼女の手足から感覚がぬけ、いつか閉じた瞼をとおし頭のうちまで光で一杯になった。
いびきで、ナースチャは愕然と目を開いた。彼女は自分の周囲を見まわした。かっちりと電燈が台所じゅうを照らしている。蝋燭は三分ほどともりのこっている。ナースチャは蝋燭を吹き消した。煙がゆれて、強い匂いが漂った。さっきとはまたちがう淋しい心持がナースチャに起った。ナースチャは伸びをし、肩をかいた。
ベルが鳴って、オルロフが帰って来た。彼は廊下で外套をぬぎながら、水のような眼でじっとナースチャを見つめ、
「いい娘さんだね、お前は」
と云った。ナースチャは、自分の顔になにかがついているんだと思って、あわてて手のひらで口のまわりをこすった。オルロフは、やっぱり水のような眼でナースチャを見まもり、命令した。
「どうかわたしに熱い茶を一杯持って来てくれないかね」
ナースチャが台所へ行くうしろから、彼はもういっぺん叫んだ。
「ごく熱いのでなけりゃいけないぞ」
ナースチャは、台所の戸をばたんと閉めて、薬罐をガスにかけた。夜業しているパン工場の燈火が、降る粉雪を射て、ナースチャのところから低く下に見えた。
底本:「宮本百合子全集 第四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年9月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第四巻」河出書房
1951(昭和26)年12月発行
初出:「改造」改造社
1928(昭和3)年11月号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年5月6日作成
2003年7月20日修正
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