ゴム印がおしてあった。ナースチャはしばらく眺めていて、きいた。
「面白い、その本」
「うん」
ナースチャは、吐息をつくように云った。
「わたしんとこにはなにもない」
指をページの間にはさんで本をとじ、娘はナースチャを見た。
「なぜ?」
「なぜだかそうなんです」
ナースチャは規則正しく、速く向日葵の種の殻をほき出しつづけた。娘は、石油販売所の入口の群集を見た。
「どうしたんだろう、今日は」
往来を映画の広告車が五台つづいて通った。赤塗のゴム輪の上に、赤坊を抱いた女の顔の大写しと、火事場の焔のなかに働いている消防夫の写真が掲げてある。車を押す男たちは、降る雪にさからって首を下げ、ならんで電車路を横切った。
娘が、
「あれは面白いよ」
と云った。
「みた? お前」
「いいえ。……わたし映画《キノ》大好きだけれど高くって――それにわたしいつも独りで行かなけりゃならないんです。みな友達づれだのに、はじめっからおしまいまでわたし黙って坐ってるんです」
「どこかに働いてるの」
「ええ」
「組合《ソユーズ》に入ってないの、お前」
ナースチャは、拇指のつけ根みたいなところで口のはたをふきながら娘を見た。ナースチャはきかれたことを理解しなかった。
「組合《ソユーズ》……どんな」
「ナルピット」
「そこへ入ると映画がやすくなるんですか」
「わたしいつだって十五カペイキか二十カペイキでみている」
やっと石油が売り出され、列は少しずつ前進しはじめた。娘は繩で壜をつるし上げながら云った。
「わたしもう二年組合に入って、夜は勉強しているし、朝九時から夕方五時ぐらいまでの働きだし、満足してるわ」
壜へ石油をつめてもらうと、娘は、外套に雪をつけたまま、ナースチャの横を通りぬけて先へ出て行った。
村での話とはちがって、ナースチャがいつくと、直ぐ二人も借室人《クワルチラント》が入った。その一人が、直接の主人よりナースチャになんだかおっかぶさって(悪魔《チヨルト》に|さらわれろ《ヴァジミー》)泣きたい気持にさせるのも仕方がないとする。洗濯物のふえたことも、このごろは食物ごしらえをほとんど一人でしなければならなくなったこともまあいいとする。ナースチャを苦しめるのは、この森の樹より人間の多いモスクワで自分が、まるっきりの独りぼっちだという事実であった。
アンナ・リヴォーヴナは不親切ではな
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