の前に現れた。
「ねえ、奥さん、本当の主婦《ハジャイカ》ならこれを見落しゃしませんよ、たった九十五カペイキ、お買いなさい奥さん」
 二人の鶏売りにはさまれ、女は怒ったように、
「駄目! 駄目!」
と叫んで一そう早く歩き出した。
「わたしは買わないよ、いらないっていったら!」
 行手にはもう別の人だかりがあり、鮭の切売りを見物しているのであった。
「ナースチャ!」
 肉売り店の前に立って少し口をあけ、面白そうにその様子を見ていたナースチャは、びっくりしてうしろを向いた。
「さ、これ」
 アンナ・リヴォーヴナは犢《こうし》の骨付肉を新聞でつまんでナースチャの籠へ入れた。
「駄目だよ。さらわれちゃ」
 女が二人ならんで足許の箱に玉子をひろげていた。ナースチャが来かかった時、年よりの方の女が、急にあわてて箱をもち上げ、
「来たよ」
とささやいた。あわててもう一人の女も箱を持ち上げ逃げるかまえをしたが、そちらを見て、
「籠をもってる」
 安心して、再び玉子の箱を元のように足許に下した。直ぐ巡査が現れた。巡査も買物で、ほかの群集の男女と同じに籠をぶら下げ、玉子売の隣で胡瓜《きゅうり》漬売の前にたたずんだ。ナースチャは顔を上に向けて笑った。市場は、陽気だ。
 リザ・セミョンノヴナも陽気でなくはなかった。
 リザ・セミョンノヴナは時々は夜も、台所へ入って来ることがある。
「ナースチャ、ちょっとじりじりやらせてね」
 爪磨《マニキュール》した彼女の手にアルミニュームの小鍋がある。小鍋に二つの卵とハムが入っている。アンナ・リヴォーヴナとリザ・セミョンノヴナがとり交した契約書には、モスクワの借室がたいていそうであるように台所は利用せぬことになっているのであった。セミョンノヴナでも、しかし時には、夜、茶と一しょに熱いものが食べたかろうではないか。
 台所の隅の腰かけに、昼間のせてあった金盥の代りに、いまはナースチャ自身がかけている。ハムをあぶりながら、リザ・セミョンノヴナは綺麗な水色の瞳で、じろじろナースチャを眺めて、云うのであった。
「ナースチャ、なぜおかっぱにしないの」
「わたし似合わないんです」
 リザ・セミョンノヴナの小料理は手伝うこともないので、かえってナースチャは間がわるい表情だ。
「きったことがあるの?」
「いいえ、伯母さんも似合わないというし、シューラも似合わないって云うも
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