の胸につり下っている、テープのように巻いた切符を眺めた。切符は赤、黄、水色、白――電車はながい。
七
クレムリン城内と向いあって、四角にモスストロイ(モスクワ土木課)がある。
パーヴェル・パヴロヴィッチは五年間、歩いてその三階へ通いつづけた。出かける前に、彼は火傷しそうに熱い茶を受皿にあけて飲んで、バタつきパンをたべて、タバコを吸いながら水色の技術制帽を外套の袖口で一二へんこすってかぶるのであった。
ナースチャは一時間半前に、台所の寝台から起きた。ソフィヤ村の伯母の家でナースチャの寝床は大箱の上だった。ここでは箱でなく、台所の壁から一枚板が下りた。ナースチャはその上へ掛物にくるまって眠るのであった。
パーヴェル・パヴロヴィッチが、茶をのんで窓越しに並木道の菩提樹《リーパ》の梢を眺めている間に、ナースチャはニッケル盆にコップと薬罐とバラ模様の急須をのせ、食堂の隣室の戸をたたいた。
「入ってもよござんすか」
直ぐ、
「お入り」
と返事のある時もある。いつまでも返事のない時、ナースチャは、ドンドン戸をたたいた。それはきっとそうやってたたかなければいけないのだ。鍵があく。
「おお眠い。一たい何時? いま」
ナースチャは丁寧に腰をかがめてテーブルへ盆をおきつつ答える。
「八時十分です」
リザ・セミョンノヴナは裸足のまま寝台の前の小さい古い絨毯布の上に立っていた。あくびをし、柔かい金髪のおかっぱを両手でもしゃくしゃにこねまわし、もう一つあくびをしつつナースチャの肩へよっかかった。
「ナースチャ、鬼よ、お前! たったいっぺんでいいからうんざりするほど寝かしといてくれればいいのに!」
ナースチャ自身は黒い髪をたっぷり持って首の上に重く丸めていた。彼女には、この金髪の、足の裏まで柔いみたいなリザ・セミョンノヴナが好もしかった。リザ・セミョンノヴナはナースチャが来て半月後、アンナ・リヴォーヴナが出した貸間広告で来た銀行員である。
リザ・セミョンノヴナは、
脚をぶらぶらふりながら、
わたしは樽にかけている。
コンムニストだということは
云ったげようか
とても、陽気だ。
流行歌をうたい出し、ナースチャの顔のなかになんともしれぬながしめ[#「ながしめ」に傍点]を与え、麻の手拭を肩にかけて洗面所へ出かける。ナースチャもついて室を出て、
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