けてある鉄扉と内壁との間へ頭だけつっこんだ。そうすると安心したように山羊は眼を細くし、時々短い白い尻尾をぶるるるとふるわした。ナースチャはむき出しな腕に籠を引かけ、その山羊のとぼけた鼻面を見ながら笑った。
「ばか……」
 ナースチャの肩に後から触るものがある。
「お前さんもここへ逃げこんだの?」
 振返って見て、ナースチャは顔をあからめた。
 アンナ・リヴォーヴナが自分の体からはなして洋傘《こうもり》の滴をきりながら立っているのであった。
「気違いみたいなお天気じゃないの」
 ツィガンカが、目さとく彼女を見つけ、そばへよって来た。
「|可愛いお方《ミールイ・モイ》、|占いしましょう《ガダーチ・ワーム・ナード》、|たった十カペイキ《トーリコ・グリヴェニク》、|占いさせて下さい《ダワイ・ガダーチ》」
 アンナ・リヴォーヴナは手提袋をあけ、三カペイキの銅貨をツィガンカの黒い、爪だけ白い手の平にのせた。
 ツィガンカはおじぎし、アーチの端へ去った。
「わたしは占いがこわい」
 アンナ・リヴォーヴナがナースチャにささやいた。
「お前さんはどう?」
 ナースチャはわからなかった。彼女はツィガンカに一ぺんも物乞いをされたことがなかった。そのくらい、見すぼらしい村の娘なのであった。
 雨が小降りになって、アンナ・リヴォーヴナとナースチャはアーチの下を出た。
「お前さん急ぐの?」
「いいえ」
 歩道の横で女が三人ならび、いまの夕立で柔くなった石の間の地面で草取りをはじめている。その前を通り過ぎた時、アンナ・リヴォーヴナが云った。
「お前さん、本当にモスクワへ出る気はないかい」
 ナースチャは、顔や胸があつくなってなんと返事してよいかわからなかった。なんとなく心ひかれたからアンナ・リヴォーヴナについて来は来たのだが……
「もし来たいなら、わたしが帰る時、一しょに行ってもいいね」
 アンナ・リヴォーヴナはつづけて云った。
「わたしの家でも働いてくれる人がいるんだからどうせ」
「わたしにはお金がありません」
「そのくらいのことはわたしが立てかえといて上げてもいい。――お前さん、床の拭きよう知っているだろう?」
「知っています」
「洗濯出来るだろう?」
「ええ」
「スープのとりようだって知ってるわね、もちろん」
 ナースチャは、ほんの少し弱く、
「ええ」
と答えた。(伯母のところでは、一月に
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