身その声をあげて突進した中の一人かも知れない。それは決して、あり得ない空想ではないのであった。
 労働者住宅から八九丁のところに、起重機が突立ち工事が起されている。石油の試掘ではなく、数千人を入れることの出来る大労働者クラブが建つ、その基礎工事に着手したところなのだそうだ。
 ホテルの前で自動車から下りた時はもう六時をすぎていた。自分は少し疲れ、同時にいろいろな印象によって亢奮した心の状態で食堂で、夕飯をたべる間も、どっちかというと黙りこんで四辺を眺めていた。四十人ばかり、今夜アメリカに向って立つというペルシアの若者が英語と自分の国の言葉とで喋りながら、食堂の一方を占めていた。小指に美しい宝石入りの男指環などはめ、それが浅黒くて眉の弓なりの顔につり合っているという種類の若者どもである。
 自分と連れとは、その夜タガンローグをさしてバクーを出立した。タガンローグはアゾフ海に沿うた小さな町でアントン・チェホフの故郷なのである。



底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房
   1952(昭和27)年12月発行
初出:不詳
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全5ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング