る台所へも現われた。
その村は明治に入ってから出来た新開の村で、子供の頃から私がよく行った時分は貧村であった。大きい池が三つ並んでいて、一番池二番池三番池は貯水池となった。菱の花が白く咲く一番池のぐるりは夏草の高く茂った馬場で、夏そこへ寝ころんで夕焼けを見ていると、いつしか体が夏草の中から泛んで七色八色の鱗雲の間をゆるく飛んで行くような気がした。そんな景色と村道の赭土にくっきり車の軌の跡のめりこんだ荒涼とした有様、鶏や馬の間でのいろんな婆さんや爺さんの他愛もない暮しぶりは、心に刻みつける何かをもって印象に迫って来るのであった。
祖母の家の裏口の小溝の傍に一本杏の樹があった。花も実もつけない若木であったが柔かい緑玉色の円みを帯びた葉はゆたかに繁っていた。夏の嵐の或る昼間、ひょっと外へ出てその柔かい緑玉色の杏の叢葉が颯《さっ》と煽られて翻ったとき、私の体を貫いて走った戦慄は何であったろう。驟雨の雨つぶが皮膚を打って流れる。そのこわいうれしさで、わざと濡れに出た。あれはただ一つの冒険の心なのだろうか。官能と精神とが不思議に交錯して、まざまざとした感覚はまざまざとした精神の印象となって、表現の慾望となるのであった。そんな時代、詩は一つもかかないでいきなり小説をかき出したことは面白いと思う。「貧しき人々の群」というような小説そのものがいってみれば一つの散文詩だと、いえばいえるのでもあったろうか。
やはりその田舎の村へ雪のつもった冬に行ったことがあった。夜風が街道を吹きはらっていて、電柱のうなる音がしていた。ふと、その風が遠くの街道からカチューシャのうたをのせて来た。学生らしい歌いっぷり、その声は段々近づいて来て、また次第に遠く消え去った。それは東京で松井須磨子のカチューシャとともにその頃はやりはじめたばかりの歌であった。それをうたう人は東京から来た人しかなく、男の声でそのうたをうたう東京から来た人といえば、その村では誰それとすぐわかる人であった。私はそれにじっと耳を傾けている。雪がつもって凍った外の夜はいかにもひろく、むこうの山並までもつらなっているなかを、マント姿で行く人の姿を浮かべているのであった。
十九のとき、十五であった弟が亡くなった。それより前に十六のとき、五つであった妹がなくなっている。そればかりでなく、その間にはもう一人、人形のような顔をした赤ん坊が一人、母が髪を結っていたついそのうしろで、いつの間にやら息をしなくなっていたこともあった。
十五で死んだ弟は、私の恐怖であった。彼は何という敵意を私に対して抱いていたことだろう。この弟は、すぐ怒って、私の髪をつかんで畳の上へひき倒した。そして殴ったりし、蹴りもした。私にだけそんなことをした。私の困るようなことを見つけるのがうまくて、ああ困ったと思うと私はすぐ、その弟の大の男並に脊丈と力のある体と、肉の厚い怒った顔つきを思い合わせ、告げ口されることを思って閉口するのであった。この弟の何か不調和であった不幸な肉体のなかでは、早すぎる小悪魔が目を覚して、荒れたのだったろう。その小悪魔の嗅覚が、ごくの身近に、やはり目さめている性の異なった同類をかぎつけて、しかも親睦をむすぶすべもない条件を、そんな野蛮さで反撥したのであったろうと思う。
兄弟、姉妹の間にあるそういう微妙で苦しいものも、親たちにとっては一律に子であるということから余り気にかけないのも、自然であるのだろうか。私はよくその弟には殺されそうに思って号泣したくらいだったのに。
この弟は、大正九年の大暴風の日に発病してチフスから脳症になって命をおとした。この弟の生命が一刻一刻消えてゆく過程を私は息もつけないおどろきと畏れとで凝視した。その見はった眼の中で、彼に対するひごろの思いもうち忘れ、臨終記として「一つの芽生」という短篇をかいた。その中では克明に、一心に、生命の火かげのうつろいゆく姿を追っているのだけれど、私は二つの眼がそんなに乾いて大きく瞠られて、凝っとその臨終に息をつめていたということも、自分の無意識の心理にふれて今考えれば別の面からも思いひそめられる。あのとき泣かない自分の心の必然というものが、意識の下まで自分ではさぐり入れられていなかったと思う。若い生きる力は、そういう我知らぬエゴイズムに満ちるときもあるのだ。
初めの結婚をしたのは二十一歳で、五六年その生活がつづいた。ずっと年上であった相手のひとが、もう生活にくたびれかけていて、結婚生活ではひたすら安穏に、平和に順調な年から年へ日々がくりかえされることを望む心持であることがどうしても納得ゆかなかった。結婚生活こそ出発と思い、そのためにこそ貧窮もその身で知っている人と結婚したのに、一つ屋根の下に暮して見れば、自分は翔びたくて日夜もがいて羽搏くし、そのひとは翔ぼうともせず小さい日向で羽交いの間に首を入れるばかりか、私の脚にいつの間にかついている短い鎖を優しく鳴らして、こんな鎖にも、いまに馴れるよ、と慰めてくれる。馴れる! 何という怖い言葉に響いたろう。馴れる! 人間はそんなにどんな生活にも馴れるものなのだろうか。私はいやだ。馴れるのはいやだ。
それからの数年は、二人にとって全く苦しい格闘の歳月であった。相手のひとにとっては、私がそうやって書く字の形までまるきり変ってしまったほど、もがき苦しむわけがどうしても本質で理解されないのだし、私としては自分の心のうちにあるその人への愛と憎みとの間で揉みぬかれる始末であった。
そんな苦しい或る日、鎌倉の海岸に保養していた従妹たちのところへ遊びに行った。四つばかり年下の従妹はまだ結婚前で、従弟たちと心も軽く身も軽く、小松の茂った砂丘の亭で笑いたわむれている。そのなかに打ち交わりながら、自分の苦悩がこの若い人たちとは無縁であること、そして、自分の苦しみは見っともなくて重苦しいことを何と切なく感じたことだろう。午後になって、みんな海岸へ出かけた。暖かい晩秋の日光が砂丘をぬくめているところへ、一列に並んで腰をおろしていた従弟たちの一人が、やがて急に何を思いついたのか、一寸中学の制帽をかぶり直すとピーッと一声つんざくような口笛を鳴らして、体を横倒しにすると、その砂丘の急な斜面をころころ、ころころと、遠い下まで転って行った。びっくりしたように、あら、といって見ていた従妹も、声高く笑いながら派手な縞の着物の裾を抑えるようにして体を横にすると、わーといいながら同じように、その斜面をころがって行った。見ている私の喉一杯に、涙とも笑いとも名状しがたいものがつき上げて来た。裙を、ぴったりつけた脚の間に捲きこむようにすると、私はきつく目を瞑って、坐っているその場所から、体を倒して砂丘をころがって行った。夢中で、ああこのまんまころがって、何処かへころがり消えてしまえたらと、やきつくように思いながら。従妹弟たちと私とは、何度も何度もそうやって転って遊んだ。ころがる最中の失神のような気持をむごく楽しみながら、私は一度は一度と益々荒っぽく自分の体を砂にまぶしてころがり落ちた。
[#地付き]〔一九四〇年三月〕
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「婦人朝日」
1940(昭和15)年3月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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