ろう。
 心のときめくかくれ場所はもう一ところあった。それは本校のその建物の真裏で、となりの聖堂の土塀に近いところに、一つづきの小高い樫の茂った丘があった。一年生として入学した年の夏、その丘の下いっぱいが色とりどりの罌粟《けし》の花盛りで、美しさに恍惚としたことがあった。それ以来、そこは私をそっと誘いよせる場所になって、よくそこへも本をもって行ってよんだ。落葉の匂い、しっとりとした土の匂い、日のぬくもり。それらは、本の面白さを増すばかりか、そういうところで本をよむ趣を猶更味わいふかい感じにさせるのであった。
 そんな風にして、どの位本をよんだことだろう。
 家ではその時分、玄関わきの小部屋が私の部屋になっていた。土庇の深く出た部屋で、その庭には槇と紫陽花と赤い絹糸の総をかけたような芽をふく楓が一株あった。蕗の薹も出た。その小部屋は、親たちのいるところと、夜は真暗な妙にくねった廊下でへだてられていた。父や母は壮年時代の旺盛な生活ぶりで、どちらかというと自身たちの生活にかまけている。よく衝突もしていた。母が泣くこともあった。百合ちゃんはお父様とどこへでも行って暮したらいいだろうと云うようなこともある。だが、それらは今思えばどれも熾な生活力に充ちた親たちの性格があげた波の飛沫で、私はそのしぶきをずっぷりと浴びつつ、自分も、あの波この波をその波のうねりに加えながら、暗い廊下を自分の小部屋へ引き上げて来る。その廊下の暗さが独特によかった。部屋の入口をさぐりあてて、電燈をひねって、澄んだ狭い部屋の明るさのなかに浮出して来る大きい手ずれた素朴な机は、祖父のお下りというものであった。その机に向って坐る。時間の一粒一粒が私に何かを語りかけ、私も何かを語りかえさずにはいられないような気分である。そこで、心臓が口からとび出しはしまいかと思うほど胸轟かして文房堂から買って来た原稿紙をひろげて、何かを書き出す。そのようにして文学というものが、身に近いものとなって、永年まとまりなく自分を表現するてだてであった音楽がやや遠いものとなって来たのであった。
 跣足になって庭を掃いたり、昔風のポンプで水まきしたり、お客様のときは御給仕役もまわって来た。久留米絣の元禄袖の着物に赤いモスリンの半幅帯を貝の口に結んだ跣足の娘の姿は、それなり上野から八時間ほど汽車にのせて北へ行った福島の田舎の祖母の黒光りのする台所へも現われた。
 その村は明治に入ってから出来た新開の村で、子供の頃から私がよく行った時分は貧村であった。大きい池が三つ並んでいて、一番池二番池三番池は貯水池となった。菱の花が白く咲く一番池のぐるりは夏草の高く茂った馬場で、夏そこへ寝ころんで夕焼けを見ていると、いつしか体が夏草の中から泛んで七色八色の鱗雲の間をゆるく飛んで行くような気がした。そんな景色と村道の赭土にくっきり車の軌の跡のめりこんだ荒涼とした有様、鶏や馬の間でのいろんな婆さんや爺さんの他愛もない暮しぶりは、心に刻みつける何かをもって印象に迫って来るのであった。
 祖母の家の裏口の小溝の傍に一本杏の樹があった。花も実もつけない若木であったが柔かい緑玉色の円みを帯びた葉はゆたかに繁っていた。夏の嵐の或る昼間、ひょっと外へ出てその柔かい緑玉色の杏の叢葉が颯《さっ》と煽られて翻ったとき、私の体を貫いて走った戦慄は何であったろう。驟雨の雨つぶが皮膚を打って流れる。そのこわいうれしさで、わざと濡れに出た。あれはただ一つの冒険の心なのだろうか。官能と精神とが不思議に交錯して、まざまざとした感覚はまざまざとした精神の印象となって、表現の慾望となるのであった。そんな時代、詩は一つもかかないでいきなり小説をかき出したことは面白いと思う。「貧しき人々の群」というような小説そのものがいってみれば一つの散文詩だと、いえばいえるのでもあったろうか。
 やはりその田舎の村へ雪のつもった冬に行ったことがあった。夜風が街道を吹きはらっていて、電柱のうなる音がしていた。ふと、その風が遠くの街道からカチューシャのうたをのせて来た。学生らしい歌いっぷり、その声は段々近づいて来て、また次第に遠く消え去った。それは東京で松井須磨子のカチューシャとともにその頃はやりはじめたばかりの歌であった。それをうたう人は東京から来た人しかなく、男の声でそのうたをうたう東京から来た人といえば、その村では誰それとすぐわかる人であった。私はそれにじっと耳を傾けている。雪がつもって凍った外の夜はいかにもひろく、むこうの山並までもつらなっているなかを、マント姿で行く人の姿を浮かべているのであった。
 十九のとき、十五であった弟が亡くなった。それより前に十六のとき、五つであった妹がなくなっている。そればかりでなく、その間にはもう一人、人形のような顔をした赤ん坊が一人
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