、結婚というごく社会的な内容の対象を、テーマの上では男の或る意味での平凡な旧套に立つエゴイスムの肯定として扱っている態度とどこか相通ずるものが感じられなくもない。
だけれども「学生の生態」という字を見ていると、私たちの心は非常に変な気がして来るのは、何故だろう。「学生の生態」という字をじっと見ていると、学生というものが現実その書棚のまわりにも群がって埃と膏《あぶら》と若さの匂いをふりまいている様々の心と体との生々しい人間たちではなくて、その本の著者の心情からスーと遠のいて自然科学的な観察の対象と化された半透明な、自発的な意志のない、海月《くらげ》か何ぞのように感じられて来るのは、何と悲しい心持だろう。
ここにたとえて云えば「現代学生の動向」という題があったとする。決してジャーナリスティックでもないし、文学的でもない題だと思う。謂わばこちたき題名で、そこに著者が肩書つきであらわれていれば、随分と取締の立場も感じられる題の一つである。それにもかかわらず人々はその題を見てすぐ日常自分たちと混ってそこら辺にいる生身の好もしく又好もしからざる青年たちとしての学生を感じ、彼等の生活の姿を眼底に髣髴《ほうふつ》する。それに対して漠然直感されている各人の日頃からの感想というようなものも、その題への一瞥と同時に動かされて来るのを感じると思う。自分たちが嘗てはそのものであった学生、兄や弟や仲間たちが皆そうである学生、よろこんだり悲しんだり不幸をもったりして成長と挫折の可能の間に青春を経験しつつある外ならぬその学生としての感じが、親密に共感をもって伝えられて来ると思う。学生は人間としての暖かい血をもって生きているものとして十分感じさせる題なのである。その意味でリアルな題であるとも云える。著者の社会的判断の志向の責任もおのずから含まれているのである。
「学生の生態」という題は、これに比べて濡れたガラスの面にさわるような感触を与える。外囲の或る条件のもとに自然物としての生物は変化する、その変化を客観的に観察する、生態学となそうというのであろう。――だが、人間はそして青年学生はほかの自然物としての生物にはない精神をもっており、感じる心をもっており、環境へ自分から働きかけてゆく力も欲望ももっている筈ではないのだろうか。それらの人間らしい力を認められての上で、その力のあらわれについて相互関係
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