今年二十歳をいくつか越したばかりの若い人々は、戦争末期には丁度中学上級生かそれより一つ二つ年かさであったにすぎない。それらの人々は云わばもう子供のころから軍歌をきかされて育った。常識的な大人を恐怖させるほど率直な真実探求の欲望にもえる十五六歳より以後の年代を、これらの有能な精神は、そのままの真率さで戦争のための生命否定、自我の放棄へ導きこまれた。専門学校では文科系統の学徒が容しゃなく前線へ送り出され、理科系統のものだけが戦力準備者としてのこされた。何年間も否定されつづけて来た若き生の、肯定と回復の一つの気の如く、不安なつつみどころのない表現として、自然と自意識の問題を語るとき大多数の人は十九世紀より現世代にこの人間課題がどう進展して来ているかさえ見おとした。こういう人間問題について特に敏感な文科系統の若い人々が、少年期と青年期の境に戦争にさらされたということにさらに大きい混乱の動機がかくされてもいた。自我と自意識の課題は、自我と社会的現実とのあるとおりの諸関係から切断して、どんな発展もない。インフレーションやアルバイトときりはなして、今日のわたしたちの学習生活が存在しないとおり、もし、今日の若い人々が経済事情をけとばしたような抽象的な学生生活を語るなら、その虚構の観念性を、誰よりも先ず若い人たち自身が軽蔑するであろう。
先ごろ何かのグラフィックに大学教授の老先輩が男女学生を集めて面白可笑しく学生アルバイト漫談をしている記事がのっていた。そのなかで、男妾のようなことをやっているものがあったそうだとか、闇の女をやっているものがあるというがとか、愉快な笑話ででもあるように老先輩が上機嫌で云っていた。大変丁寧な、身分のちがいをあらわした言葉で対手をしている幾人もの学生のうち、一人として、その態度に抗議をしていなかった。それは現代の日本の若い精神のおどろくべき一つの表情ではないだろうか。
アルバイトをとおして学生は勤労者化しつつある。アルバイトをとおして、学生の小市民性は危機にさらされてもいる。ここにこそ具体的な自我と自意識の発展と崩壊のテストがある。もし、そんな年より相手に議論しても大人気ないと判断したのなら、それだけの価値しかもっていない対手と話すらしいあたりまえの口のききかたをしていてよい。大学教授であり、その人々の直接か間接かの先生というところに、日本語の封建的特
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