登場したと考えられる。ゾシチェンコは中央アジアのどこかに避難していて、羊の焙肉をたべていて、やせもしなかった体と、脂肪の沈着した脳髄とをもって、やつれはて、しかし元気は旺盛で、笑いを求めているレーニングラードに帰ってきた。そして自分の店をひろげはじめた。
 ソヴェト市民が欲しがっていたのは、ハァハァと陽気闊達に笑う哄笑であり、仲間の脇腹を突つきながら、快心をもって破顔する公明正大な笑いであったのだろう。ソヴェト市民の生活感情に、そういうユーモアがないならば、イリフ、ペトロフ二人のような辛辣で人間らしく、しかも新社会の感覚にみちた諷刺作家は生れなかったはずである。ソヴェトの新しい軽音楽を開拓している諷刺的な流行歌(シャストシュカ)の歌手、「陽気な連中」の主役を演じたような歌い手も出ないはずである。今も『鰐』という諷刺雑誌が出ているかどうかわからないけれども、これも辛子《からし》のきいた諷刺雑誌であった。自己批判としての諷刺は、自己批判を発展のモメントとしてはっきりつかんでいるソヴェトの生活感情の中では、自然で健全なあり場所をもってきた。
 ゾシチェンコは昔からいつもいかがわしい、清潔でない、裏のぞきふうな曝露を盛った作家であった。「猿の冒険」でゾシチェンコがその猿に経験させたスキャンダルはだいたい想像される。レーニングラードの市民たちは、はじめ求めていた快活な爽やかなハァハァ笑いから、いつしかゾシチェンコごのみの、ゲラゲラ笑い、ヒヒヒヒ笑いに誘いこまれたのであったろう。
 一般読者の要求とジャーナリズム編集の上に生じるギャップの現象は、日本の一九四五年末から一九四六年中ごろまでにも生じた。戦時中日本の作家の大部分は侵略戦争の協力者であったし、民主的な作家は強圧されていた生活からぬけたばかりで、いわゆる「浄らかな手」で書かれた新しい歴史の展開にふさわしい文学作品が求めにくかった。そこでその手が血に染んでいないことだけはたしかな永井荷風の作品、谷崎潤一郎の作品などが、当時の営利雑誌に氾濫し、ある意味で今日デカダンティズム流行の素地をつくった。そして、戦争の永い年月、人間らしい自主的な判断による生きかたや、趣味の独立を奪われていた一般読者は、無判断に、ほとんど封建的な「有名への」屈伏癖でそれを読み、うけ入れた。これははっきり自分たちの運命の民主化をおくらすことなのであったが――。
 ソヴェト市民は一九一七年以来文盲撲滅を努力的に行って、もとはインド、中国と並んでいた文盲のロシア人民を、啓発してきた。本を読む人口は全人口の尨大な部分をしめている。これはシーモノフなどの文学作品の発行部数が数百万部というのでも想像される。これらの新しい読者階級は、もとのようにすでに読むことにすれている有識階級の範囲にとどまっていない。男女の農民・兵士・工場の労働者・学生・教師・政治活動家・芸術家、広範囲にひとしくよまれる。したがってその理解の段階も複雑であることが思われる。
 民衆精神のうちにはいつも鋭い諷刺の精神がある。日本の徳川末期、町人階級はそれを川柳・落首その他だじゃれに表現した。政治的に諷刺を具体化する境遇におかれていない鬱屈をそのようにあらわした。十八世紀のイギリスで、当時の上・中流社会人のしかつめらしい紳士淑女気質への嘲笑、旧き権威とその偽善への挑戦として、スウィフトの「ガリバア旅行記」が書かれた。その国で、諷刺文学がどんな形式と内容とをもって発展してきているかということは、意味ふかい観察眼である。ゴーゴリの「検察官」と「死せる魂」その他の意義はどこにあったろう。ガルシンの「赤い花」が西欧の読者の胸をうったのは、そのシンボリズムが何を語っていたからであったろう。
 公然と条理をもって、しかも人間的機智と明察をもって、どこまでもユーモラスに、だが誰憚らぬ正気な状態において諷刺文学がありうる処と時代に、スカートの中を下からのぞくようなゲラゲラ笑いが、笑う人間の心を晴やかにするとは思われない。自分たちの社会主義社会を防衛するという必死の集団的行動において、おのずから英雄的であったソヴェト市民の一人のこらずが、その難の終った後、いっそう深くその行動の世界史的価値を自覚するということは期待しにくかろう。少なからぬ人にとって、それは当面したさけ難い困難・必要として全力を傾けて克服したのだが、その経験は感性的に経験されたにとどまったであろう。感性的経験は時間に洗いながされる。それだからこそ、勇士と生れついていないすべてのおとなしい平凡な人々さえも、生存の必要に当って英雄でありうるのだともいえる。すべての女性が生みの痛苦に耐えうるように。しかし個々の意識人の人生において、経験は蓄積されなければならず、批判・発展が継続してされなければならず、その結果としての閲
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