ットウだの、あわれに強制された一人のカールだのの過去三十年の運命とは、一つも似たところないものであった。ソヴェト同盟の今日から明日への文学の根は、ここにこそある。現代史において人間らしい生活というものにたいして最も意識的である社会から、その成果として成長した文学者、人生の諸経験にたいして最も意識的であるはずの文学者・芸術家「魂の技師」が、自身そこに属しその中から生れた人民生活の価値について、曖昧な評価しかもちえないということが認められようか。
ロシアの近代には、人類精神史の底石をなすようにベリンスキー、ニェクラーソフ、ドブロリューボフらの文学者があった。ゴーリキイという一九〇〇年代からの民衆の革命史そのもののような作家がある。ジダーノフがその報告のなかで、現代ソヴェト作家が、これらの民主的文学の業績を、健全に発展させるようにと力説していることは、当然の上にも当然である。ソヴェトの社会はその諸現実でレーニン、スターリンの時代と経てきた。スターリンの文体は、その明確さ・簡明さ・溢れる生命力の美で、言語芸術の領域に新時代を画している。第二次大戦中の十月記念日に、メーデーに、スターリンがおくった激励の挨拶の、あの人間らしい暖かい具体性、肺腑にしみ入って人々にソヴェト市民たる価値と歓喜とを自覚させるあの雄勁なリズムは、ソヴェト市民が、誇りとするにたりない詩であるだろうか。雄々しくその線を守って倒れた七百万人の生命とともに、それをもったことを愧《は》じるような、そういう表現であるのだろうか。雄勁であるからこそほとんど優美であり、堅忍でありえてはじめて湛えられる柔和の情感にみち、彼らの科学のようにリアリスティックであり、彼らの生産プランのようにテーマと様式の統一にたいして本気である、そういう文学が、彼らの偉大な勝利ののちに生みえないとどうして信じられよう。
日本の作家にとって、眼に浮ぶ涙なしに、このページは書けなかった。日本の近代文学のどこにただ一すじのベリンスキー、ニェクラーソフの伝統があるだろうか。われわれは、たとえようもない貧寒さに立っている。だが、私たちはシューマンの荘重な一つの歌曲を思いおこさずにはいられない。その歌はうたっている。「私は、悲しまない」と。先にゆく人影がないのならば、まずその道を行った人々によって伝統が始められたことを知らなければならない。日本の人民
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