にひそかな駭《おどろ》きをもって女性というものが現れた刹那から、人生の伴侶としての女性を選択するまでには成育の機変転を経るわけである。感情の内容は徐々に高められて豊富になって行くのだから、いきなり恋愛と結婚とをつなぎ止めてしまうことには、当を得ない点がある。十分にそれを考慮に入れてしかも尚、今日の若き人々が、恋愛について比較的公開的な心持になっているのに、半面愛する者を愛妻として期待しない気持の中には、何かそのままに見過せないものが潜んでいると思う。
日本では、誰にも知られているとおり社会のあらゆる現象が古きもの新しきものの苦しい錯綜に絡まれているために、例えば恋愛はその限りに於て人間本来の感情と見られていながら、結婚となると昔ながらに、家と家との交渉の面が忽然として大きな比重を占めるようになる。或る結婚は、特定の家として出来ぬ、許さぬ。そういう事が決して珍しくない。事を一層紛糾させている他の社会的な心理は、極めて現代風の経済観念、打算が若い心にも反映していて男女とも、結婚は経済的社会的安定の基礎として計量する小ざかしさが生じていることである。男がそのような計量で恋愛をするのみか、若い女も今日では、あわれにもそれを近代性が彼女に与えた賢さであると勘ちがいしているのが少くない、これらの事情はもつれあって、全く旧来の家と家との縁組みの習俗へ若い世代を繋ぐかたわら、それは現代の経済内容を盛って金、地位などというものへ、多くの進歩の可能を埋没させてしまう結果となっているのである。
このような現実は、結婚の質を低めているばかりでなく、当面には恋愛の質をも粗悪、粗忽にしていると思う。いつかわが手から落ちるだろうと思って摘む花を、誰が一々やかましく吟味して眺め、研究して掴むだろう。そういう、とことんのところで消極的なものが包蔵されている心理で、良い恋愛の対象にめぐり会えまいことは一応わかることだし、その程度の対象では生涯の伴侶として決定しかねるという因果関係が生じて来るのもわかる。
真率な、健康な理性と情感とをもつ若い世代は、自身が歴史の火に負うている課題として、出来るだけ、恋愛と結婚とを一本の道の上に置くように行為すべきであると思う。ここで一本の道の上というのは、一から二への直接の移行という意味ではない。それぞれの人の人生に向う態度の発展を語る一貫性の一内容として自覚され
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