の生存の偶然性を云って、自分の生きてゆく時代のその国の歴史や世界の歴史に対して、自分なんか責任はないという気持を表明するひとがある。そういう考えかたは人間の生活の真の美しさ、よろこばしさ、面白さを理解していない言葉だと思う。生まれたという偶然が、生活してゆくという人間の創造的なより高貴な必然にかわる瞬間は、歴史というもの社会というものの力で生活が支配されている一方、常にそれに働きかけそれを作ってゆく者として自分を現してゆくという微妙ないきさつの中にひそめられている。歴史によってつくられている一人一人の人間が、結局は明日の歴史のつくり主であるという興味尽きない活動性の流れのなかに、私たちの生の刻々も燃えているのである。
今日の私たちの生活は、遙かに遠い遠い昨日からつづいたものであると同時に、悠久的な明日の希望へまでもつながったものであって、今日の生の意味は、時間的に過去と未来とをうけわたすばかりでなく、明日へ何かよりよきものを齎そうと願う人間の熱意の表現であり具体化であるところに意味があるのである。
多くの人々は、一個の人間の表面的な弱さや生命の短かさやについて感じやすい心をもっていると思う。けれども、そのように弱くもあり百年も生きない一人一人の人間の生命と生活というものに、どんなかくされた蓄積と期待すべき未来までへの可能が蔵されているかということについて、おどろきを新にする感動は、割合忘られがちなのではないだろうか。自分のうちにそのような可能を発見しそれを信じ、その実現のために最大の骨折りを惜しまず生きとおす者は、それは人類のなかの人類、人間の中の人間であるということを、明瞭に知って自分の生活の感情としようとしているひとは、果して何人あるだろうか。
女は昔からよく大地に譬《たと》えられて来ている。それは、女が母となって人間の世代を絶やさぬ豊かな土壌であるというところから云われるのであろうし、また、大地は一応うけ身におかれているということからでもあるだろう。大地の歴史は、人間の出現とその人間たちの大地への働きかけが始まった日から始まるのであるから。
昨日から今日を生きて明日を生む歴史の担いてとして、女はこれまで随分生物的にばかりその任務を果してきたと思う。人間のこの社会への誕生は偶然であるがやがてその存在の価値は必然にかわってゆくという意味ふかい歴史の発展への
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