服も着かねるような状態におかれたのであった。日本のつつましい女性は、ほとんど全部が海の彼方の生活は知らず、地名もなじみない彼方に遠く、手紙さえ書けず、はかなく愛するものを死なした。
 すこし深めて、第二次世界戦争のいきさつを眺めてみると、私たちを非常におどろかせる事実がある。それは、今回のナチズム・ファシズム対民主精神の大戦争では、戦争による未亡人というものが、決して直接、職場で戦死した良人たちの妻ばかりではないということである。
 二十五年の年月は第一次大戦と第二次大戦の闘争の方法をすっかり変化させた。戦線は飛行機の快速力とともに拡がった。すべての交戦国にとって銃後というものは存在しなくなった。戦災という言葉は戦争によってひきおこされた輪の外での災難を意味してつかわれているようだけれども、そして、なにか附随的な現象であり、それは、のがれたものとのがれられなかったものとは本人たちの運、不運にかかわることのようにうけとられているが、それは間違っている。戦災は、現代戦争の方法がああいうものである以上、戦争の輪の中において考えられるべきことである。より遠い前線というちがいしかなかった。世界はそれを明瞭に知っている。日本じゅうでは、戦災で良人や子供を喪った女性が決して少くないのである。これらの孤独になった妻たちは、一人として個人の身勝手からおこった事故で未亡人になった婦人たちではない。戦争による未亡人である。
 更に、もう一歩こまやかに進み出て私たち女性の生活をながめ入ったとき、そこに発見される現代史特有の悲痛な事実がある。それは、戦場で死んだのでもなく、爆撃で死んだのでもないが戦争の直接のおかげで殺された人々の妻たちが世界じゅうにいる、ということである。
 戦争中という言葉が、今日いわれる場合、私たちは一言の説明を加えないでも、それが苦しかった時代、無茶な抑圧のあった時代、人権がふみにじられていた時期として、心が通じ合う。一冊の雑誌、一冊の本、風呂屋、理髪店での世間話さえ、それが戦争についての批評めいたものだと密告され、捕縛され、投獄された。私たちは、今もなお悪夢のような印象で一つのポスターを思い出す。省線各駅、町会の告知板に、徳川時代の、十手をもった捕りかたが手に手にふりかざした御用提燈が赤い色で描かれたポスターがはられた。赤い御用提燈に毒々しくスパイ御用心と書かれていた。当時の権力者たちは、自分らでまきおこした大惨禍を、国民が反省し、考察し、批判して是非を論じることを極端におそれた。そういうものを一括して、スパイと思わせた。道理に立つ足場が弱かったから、それだけ人間の理性の明るさを恐怖した。ある婦人雑誌などはその一頁ごとに、洋鬼を殺せ、とおそろしい文字を刷った雑誌を、おとなしい家庭的な日本の妻たちの手もとにおくったのであった。
 条理に立つ判断を人民の精神の中から追いはらい、追いはらえないものならば、出来るだけそれを封じこめて、目かくしをされた家畜のように戦争に狩りたててゆくために、日本の法律は、全く恥というものを知らない行動をした。日本の治安維持法が昭和三年に制定されて、昨二十年の秋廃止されるまでの十七年間に、ものを考え、日本の未来について憂慮する人々を約十万人も投獄した。幾人もの人が獄中、獄外で殺された。治安維持法が廃止された去年の秋、その法律の犠牲になった人々は、民衆の解放のための英雄として、新しく見なおされた。先頃上映されていた「命ある限り」という映画は通俗化されながらも、これまでひたかくされていたこれらの事情をいくらかは人々に会得させたのであった。その犠牲者の妻たちを、私たちはなんと呼んだらいいのだろう。古い言葉をそのままにあてはめれば、彼女たちは、やはり今日の幾十万人の未亡人中の一人一人なのである。
 ヨーロッパ諸国で、この事情は、もっと複雑な内容をもって歴史の前面にあらわれて来ている。私たち日本の女性も、その名と作品とはいくらか知っている文学者トーマス・マンが、ドイツからアメリカへ亡命したのはなぜであったろうか。アインシュタインがアメリカへゆき、ジョリオ・キューリー夫妻がパリーのキューリー研究所をすててスイスへ逃れたのはなんの理由によるだろう。ナチスは、ドイツ人だけが人類の中で繁栄すべき民族だと主張して、見識のせまい、偏見にみちた保守勢力に迎合した。そして、民族的偏見に火をつけて、自分らの政権を維持する便法にした。ナチスの他民族排撃の野蛮さは人類史の最大の汚辱といえる。ナチスは、ユダヤ人を追放し、財産を没収し、集団的に虐殺した。ニュールンベルグの国際裁判の公判廷で、ゲーリングは自分らの惨虐をふたたびフィルムの上に展開されて、文字どおり嘔吐したと伝えられている。その命令を下した人物さえ、それを見直すにたえないほどの惨
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