って、
「何のお話?」
と出て来た。慎一は別に返事しないでいる。その様子と兄のそぶりを見くらべて、峯子はいかにもその家での末娘らしく、
「お兄さんたら!」
と父親のような鴻造を睨《にら》んだ。
「またどっかの鞄もちに売りこむ算段していらっしゃるんじゃないの? いやよ」
「ふん、それもまあいいさ」
峯子は気にするようにもう一遍、黙っている慎一の方へちょっと眼をやった。
前後の事情がそんな具合であったから、峯子には話の内容はよくわかっていない。自分が出現したことで、その話もうちきられた形になったが、今の慎一の物の云いぶりには、おのずと峯子の注意をよびさます何かがふくまれているのであった。
大通りから右へ折れて砂利道にかかると、ところどころに草の生え茂った空地などがあって、峯子は照子を抱いている慎一の肱へ下から手を添えて歩いて行った。下界に風が出ているわけでもないのに、いつ湧いたのか雲が時々月の面を掠め、雲が迅《はや》いので月の方が動いて行くように見える。彼等のゆく道も明るくなったり、翳《かげ》ったりして、その明暗を顔にうけながら、慎一は低く柔く口笛をふいた。一人の人が歩いているような二人の砂利を踏む跫音《あしおと》と静かな口笛の音とは寝しずまった深夜に響いた。
家への杉垣を曲る手前に、ひどく吠え立てる犬がいた。夜更にかえるとき慎一はいつもその犬が聴きおぼえている独特の調子の口笛を、峯子もききつけることを知りながらふきふき来るのであった。
二
東京の人口はどの位あるのだろう。大体が六百五十万ほどだそうだから、そのなかでサラリーマンと云われる部類は凡《およ》そ数十万を占めているにちがいない。そのなかで昨今の時勢につれて格別立身のつるをつかんだと云うのでもない連中。とび立つような夫々のきっかけをのがさずとらえて、いろんな動きかたをしたというのでもない連中。そういう人数も数にすればどっさりいるわけなのだが、その居据り組のサラリーマンはどんな気持で昨今の毎日を暮しているのだろう。
十二時から一時少し過ぎまで、慎一もコンクリート建の三階の室から外へ出て、或る時はひとりで、或る時は何人づれかで食事したり、そのあとをブラブラ歩いたりして、ある興味をもって周囲を見ているのであった。大阪の方はサラリーマンの暮しが東京より楽だという新聞の記事もあった。ところが
前へ
次へ
全16ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング