あがりたいのじゃないの、代りましょうか」
今度は峯子が子供をうけとると足どりは益々ゆるやかになり、慎一はすこし顔を仰向けるようにして心持よさそうに煙草の烟をはきながら歩いていたが、いきなり何の前おきもなく、
「どうだい峯子、おれの信用はなかなか大したものだろう」
と云った。その声に笑いがふくまれている。
「信用?……ああ。それは、だってあたり前だわ」
「ひとつ、君の兄さんのすすめにしたがって、その何とか総務係長というのになって見ようか……」
それには答えず、しばらく黙ったまま歩いていた峯子は、どこやら歎息のまじった調子で、
「兄さんはあなたが御贔屓《ごひいき》なのねえ」
と云った。
「うちが女の子ばっかりだから無理もないようなものだけれど……。でもね、私お兄さんの御贔屓は、本当のところいつだって心配よ」
「――そういうところはなくもないね」
「お兄さんに、しんから私たちがわかっているとは云えないじゃないの。私たちに好奇心があるのよ。ちがうかしら。お兄さんなりに、何かパッとしたことをやらして見たい、そういう風なところがあるでしょう?」
「峯子たちのためにも生活の安定っていうか将来の安心というか、この頃はそういうことも考えてるんだろう」
「じゃ満州のその何とか製鋼なら、安心があるというわけなのかしら」
「バックの性質やひきの関係から、兄さんとしては当然そう見られるんだろう」
どれ、と再び照子を自分の方へ抱きとって、慎一はショールを子供の体にまき直しながら、
「峯子の恬淡《てんたん》さはね、世間の妻君たちにくらべると或は例外かもしれないんだよ」
と云った。
「東洋経済の調査部員なんて、今の時世じゃ、てんから社会的な地位なんぞと云える種類のものじゃないからね」
穏やかに自分からつきはなしたように云っている、その調子に却って慎一が兄の就職すすめを重く考えかけている傾きが感じられるようで、峯子は浅い不安にとらわれた。
二十歳ちかく年の違う実家の長兄の鴻造が、義弟である慎一のために職業の世話をしかけたのは、これが二度目であった。初めのときは、まだ照子が生れないうちで、その話は慎一が熟達している語学を国外で役に立てる方面の仕事であった。
「峯子の語学だって、それだけものになっていれば、どうして捨てたもんじゃない。どうだい。ひとつ夫婦相携えて雄飛してみちゃあ。若いうちに、そ
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