りでもないような太い声を出して咎《とが》めた。
「どっちなんだよ一体。大いに煽られたいのか、なだめて貰いたいのか、はっきりしろ、人さわがせな」
みんながどっと笑った。飯島もにやつきながら、それでもその話は決して断念し切れない様子で、赤と白との縞の日覆が半分ひろげられている大きい窓ガラスの方へ視線をやりながら、その眼をしばたたいているのであった。テーブルを立ったとき、戸田はモザイックの床の上で靴をパタパタやりながら、
「壮言はビールの泡とともに、か。とんだ飯島のアルトハイデルベルヒだよ」
都会人らしく疳《かん》をたてて云った。
河岸っぷちの歩道を一人で帰って来ながら、今までその場にあった雰囲気を思いかえすと、慎一は、やっぱりそこに、いかにも今日らしい神経の動きを見るのであった。みんな傍観的態度を保っていながら、その一面では飯島の亢奮につよい疑問の形で捲きこまれているのであった。
そして最後に飯島が沮喪《そそう》したようなことを云い出して、動揺している、その動揺をちゃんと感じとるものがめいめいの心にも用意されていた。
慎一の身辺には、飯島の話のような、どちらかと云えば至極単純な罪のない夢より、もっと複雑な例もあって、この一二年そういう特別の動きかたをした者の現在りゅう[#「りゅう」に傍点]とした姿には、世相の迂曲した大路小路がそのままにうつっているのである。実際そういう変りかたをした例もすくなくない。あの男もこの頃は云々と、も[#「も」に傍点]ということに第三者の心持をこめて語られているのが通例であるが、慎一自身、そういう変転の姿に社会的な感情として羨望を感じないとおり、羨望という言葉で云われれば居据りの組の何万、何十万という人々の大部分も恐らく羨望は感じていないにちがいない。そういう部類の人間と自分たちの生活との間にある距離は偶然のものではなくて、人間としての肌合いの相違として、これまで経て来た生きかたの相違の全部をこめたものとして、意識、無意識のうちに理解されている。
けれども、そういう比較なんかは一切ぬきで、自分というものを自分だけで感じるとき、そこには何か別の感じがある時がある。瞬間の暈《くるめ》くような激しさで、自分というものが橋桁で、下に急な流れをみおろしてでもいるような、止めどなく洗われている感覚に襲われることがある。みんな、と云っても我知らず
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