安定を可能とする方向として人民的な民主主義という、第二次大戦後の新しい歴史的環がつかまれるのである。
「真夏の夜の夢」は、まだきょうほどせっぱつまらなかった戦後の懐中に応じて、非常に好評であり、経済的にもあたったとされている。
 土方与志氏が、東宝の大世帯の全体を活用しなければならない条件を考慮しながら観てたのしく、新鮮で変化にとみ、下劣でもないよろこびを、疲れた日本に与えようとした努力は十分につぐのわれた。「真夏の夜の夢」を劇として支えているのは、アテナの二組の若い恋人たちではなくて、插話的にあつかわれている職人衆の素人芝居の場面であることは面白い。あすこには、ほんとうに腹から笑う素朴なおかしさと、生地むいだしの人間らしさとがあってシェクスピアという戯曲家の着目と力量とが、全くひととおりのものでないことをうなずかせた。
 この職人衆のリアリスティックな場面に対して、二組の恋人たちが、森の中で精霊たちのいたずらにあってうきめをみるおかしみが、巧みに配置されている。しかし、きょうのわたしたちは、「真夏の夜の夢」の変化の多様さ、飽きさせなさの間にやっぱりルネッサンス時代の人間精神の暗さと野蛮さとを感じる。面白がって、笑ってみている若い人々の、その人たちの運命は、森の精霊よりもっと兇悪な日本の軍事的暴力のために、あれほどまでに愚弄された。舞台では、アテナの二組の恋人たちが、パックのおとす一滴の草汁のために、対手をとりちがえ、愛そのものをとりちがえて、泣きつ叫びつ混乱する。それを、ゲラゲラ笑って見ているほど、それほど愚弄されることについて日本民衆の感覚はマヒさせられている。軍事的愚弄をうけっぱなしの笑いかたをしていた。笑いは決して諷刺にまでたかまっていなかったし、演出者の力点も、アテナの主権とそのしきたり[#「しきたり」に傍点]に反抗する若い二組という面で強調されていた。つっこんで云えば、そういう政治権力に抵抗したあの時代の若い人々の自然発生の自覚は、同時にあんな魔法でひっぱりまわされるほど哀れに暗い一面をもっていた、ということにルネッサンスそのものの時代性がある。半ばさめ、半ば眠っている日本の現代への諷刺として、この点を興味ふかくとらえるならば、演出者は、ルネッサンスを歴史性ぬきの人間解放の面からだけ解説せず、その暗黒さにおいてもリアルに解説して、観衆の心に笑いながらいつか心にのこされてゆく疑問を植えるべきではなかったろうか。
 ベリンスキーのルネッサンスとシェクスピアについての省察は、特に今日のわたしたちにとって、切実な示唆をもっている。[#地付き]〔一九四八年二月〕



底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「女靴の跡」高島屋出版部
   1948(昭和23)年2月
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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