そうで読めない現代中国文学は、不断の魅力となっているのである。
「春桃」は昭和十四年に支那現代文学叢書第一輯として出されたものである。七篇の作品が収められている。落華生「春桃」、冰心女士「超人」「うつしえ」、葉紹鈞「稲草人《かかし》」「古代英雄の石像」、郭沫若「黒猫」「自叙伝」等である。
 これら七篇の作品を読み、一貫してつよく心を打たれたのは、これらの中国の作家たちはおそらく小説で飯をたべてはいまい、というリアリスティックな印象であった。
 一つ一つの作品については、それぞれ異った印象があるし、おのずから出来、不出来がある。しかし、七篇をとおして流れている云うに云えない生真面目な、本気な、沈潜した作者たちの創作の情熱は、少くとも日本の、浅い文学の根が、ジャーナリズムの奔流に白々と洗いさらされている作品たちとは、まるで出発点からちがったものであることを痛感させた。
 ここに集められている作品の作家たちは、おそらく皆、どの人も、中国の文学を愛する人々からは尊敬され、親愛の情をもって期待されている人々であろう。私のように、中国文化について知らない者でさえも、謝冰心女士の名は聞いて久しいし、郭沫若と云えば、彼が日本の家の内に愛妻と愛子たちとをのこし故国へ向って脱出した朝の物語までを、心に銘して知っている。
 だが、中国の社会の歴史は、近代企業としてのジャーナリズムというものを、日本ほど発達させていないのではないだろうか。日本のように、明治以来、よろめきつつ漸々前進しつつある近代の精神を、精神の自立的成長よりテムポ迅い営利的企業がひきさらって、文学的精励、文壇、出版、たつき、と一直線に、文学商売へ引きずりおとしてしまう現象は、中国文学にまだ現れていないのではないだろうか。
 バルザックの「幻滅」は十九世紀において、ヨーロッパに出版業が企業として擡頭し始めた時代に、作者たちが、どんなにその営利業の本性をむき出した奸策と闘い、打算に抵抗し、頑強に作家として[#「作家として」に傍点]闘わなければならなかったかということを、暑くるしいほどに描き出している。
 芥川龍之介が馬琴を描いた作品の中には、版元が、為永春水と馬琴とを張り合わせようとする苦々しさが、馬琴の感想として語られている。淡く、語られている。
 バルザックの小説を読むと、ヨーロッパの近代文学の作家たちはあく[#「あく」に
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