ものかという反抗が起った。自分を取囲む総ての者は、何等かの意味に於て、その影の人の暗示を受けている。誰も、その者自身ではない。が、誰かがその者の一部となっている。
 正隆は、我と他人《ひと》に向って、
「どうでもしろ」
 という、捨科白《すてぜりふ》を投げたのである。
 自暴自棄な捨科白を投げながら、正隆の想像の裡には、ふと、係蹄《わな》に懸った狼と、半狂乱で取組み合っている猟師の姿が、浮み上った。
 積った雪の深みに懸けた係蹄に、何も知らない狼が、餌を漁りに来て足を噛まれたのだ。樹蔭で様子を窺っていた猟師は、旨いぞ! と云って手を打っただろう。
 けれども、いざ手取りにしようと掛って見ると、命がけで飛び懸って来た牙に捕えられて、思わず同じ係蹄に転り込んだ猟師が、泣きながら、叫喚《さけ》びながら、獣と人間との血を混ぜ合わせて、掴み合う、食い合う、争闘する――その、自業自得を見ろ! という、腥惨《せいさん》な快感が冷笑となって、正隆の瘠せた小鼻に皺を刻むのである。
 狼は自分である。猟師は、彼の見えざる何者かと、その手下共である。
 この時正隆は、決して、係蹄を掛けたものが、結局は同じ係蹄に掛って殺されるのだぞ、という、復讐の勝利を感じているのではない。自分も、他人も、一緒くたに丸め、突転して力の限り踏みにじり、噛み潰す、火のような亢奮で、脂汗を掻きながら、歯軋りをするのである。

        五

 皆が、正隆を嫌っていた。それは事実である。けれども、また皆が、彼を一種の憐愍で見ていたことも、事実であった。彼は、神経衰弱になって、あんなに脱線するのだということを、最も確実な説明として、正隆を観たのである。従って、人々の嫌厭の陰には、何かそれを裏づける、寛大ともいうべきものがあった。
 まして、校長の副島氏は形式を越えた心痛で、この若い教師を眺めたのである。
 けれども、人の好い、何方《どちら》かといえば単純な副島氏は、正隆の、辛辣な、神経的な顔に面と向って相対すと、いつも、云いたいことを云い出せないような、不安と圧迫とに押えつけられた。
 どんなに元気よく、大きな声で快活にものを云いかけようと決心はしていても、彼の顔を見るや否や、このよき副島氏の計画は崩れてしまう。忽ちのうちに、正隆と同じような陰気さと暗さとに染められる彼は、まるで、正隆と同様な感情の所有者のような口調で、
「どうですか?」
と、意味をなさない断片的な言葉を吐き出してしまうのである。
 副島氏の、この挨拶を受ける毎に、正隆は同じように意味をなさない、微笑を返礼にした。時には、
「有難う」
と云う。
 そう云いながら、彼は心の中に、「またおきまりの、どうですか、か!」と呟きながら、苦笑をするのである。
 皮肉な気分で、表面は、一片の義理に見えるこの言葉を噛み捨てながらも、正隆の淋しい、荒涼たる心は、事実に於ては、どれほどの温みを感じていたか分らなかった。ただ、彼は、それを示すのが厭なのである。何だこんなもの、という表情をしていたいのだ。けれども、西日に照らされると、まるで茶色の風船玉に、小指でちょいちょい眼鼻を付けたような副島氏の表情は、何の毒も持っていないようにさえ思われる時がある。
 心に喰い込んだ疑惑に包まれながら、疑いと信頼と半々な心持で、いつも正隆は、この老年に近い校長を眺めるのである。
 ところが或る日の放課後、行くでも帰るでもない正隆が、呆然《ぼんやり》と、図書室の柱により掛っているところへ、思いがけず、副島氏が来掛った。そして、周囲に人のいないのを見ると、いきなりつかつかと近寄って来て、親しく彼の肩を叩きながら、先ず、
「どうですね」
とお定りの口を切った。が、今日は、それだけで終りはしなかった。副島氏は、全く思いがけず、正隆を夜の食事に誘ったのである。
 副島氏の言葉によれば、夫人も、彼には逢いたがっているのだそうだ。瞬間、返事に窮すような気分を感じながら、それでも正隆は、明に嬉しかった。
 美貌で評判の高い副島夫人が、自分を顧みてくれたということが、正隆の、久しく封じられていた遊戯《いたずら》心を擽る。彼は、その時ばかりは、皮肉さの微塵もない微笑で、承諾した。
 長い、退屈な、単調な田舎の生活に飽き尽した正隆の心は、表情の豊かな夫人の美と、抑揚に張りのある、丸い、転る東京弁に慰められて、想像以上に活気づいた。
 罪のない饒舌で坐を賑わす夫人と、何時の間にか、一寸した冗談を云い合うほど、彼はいい心持に有頂天になった。厭な、蒼い、捻れた正隆は影を潜めて、快活な、贅沢な、遊び好きな若者が入れ換った。容貌に於て、比較にならない副島氏が、思わず夫人の顔を眺めたほど、それほど正隆は幸福であったのである。
 若し、そのままで、副島氏の家を辞することさえ
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