れない正隆は、全く、自分の心の遣場所を持っていなかったのである。
青年が、生活の第一歩を踏み出そうとして、一滴は、必ずこぼすだろう涙。
その記録すべき深い、静かな、祈願と、憧憬と、漠然と直覚する失望に似た感じが、正隆の場合では、ただ、感傷的に傾き過ぎていた。正隆は自分で、自分の魂、生活を御して行けなかった。周囲の他力に、彼は支配される。自分の心を掘抜くことも出来ず、人の心は、まして燃え抜かせるだけの力を持たない正隆は、胸に満ちる海潮のような感情を、湧くにつれて、後から後からと澱ませて行ったのである。
澱ませられながら、容積を増す感情は、どうにか流動しようと身をもがく、その最も自然の結果として、正隆は、自分の身辺に存在する唯一の弱者である学生に、その感情の、甘饐《あます》えた、胸のむかつく沈澱を、浴せかけたのである。
それにしても、正隆は決して学生を、真正面から叱責したり、急しい課題の続出で、困らせたりする種類の意地悪さを持ってはいなかった。
彼は、自暴自棄になったのである。
今までは、相当に緊張して立った教壇の上に、正隆はもう、木偶《でく》のように押据った。そして、義務的に独逸語を、美くしい声で読み上げたまま、後はもうかまわない。席順に、一人宛、一節の教科書を輪読させて、間違おうが、支《つか》えようが、彼は注意をしようともしなかった。凝と机に頬杖を突いて眼を伏せた正隆は、頭の先から、細い爪先までを満たした、何ともいえない焦躁と、淋しさと、棄鉢《すてばち》とに身も心も溺らせて、殆ど忘我に近い憂鬱に沈み込んでいるのである。
けれども、こんな正隆の態度は、決して学生達を、長く鎮めてはいなかった。
三箇月も経たないうちに、正隆は、学生中の嫌われ者になり終せた。
たださえ彼の曖昧な、尊大振った、弱々しさに何かの物足りなさを抱いていた少年、或は青年達は、彼の不真実な挙動を見ると、もう黙ってはいない。彼の無能を罵る声や、彼の不熱心を訴える声が、教員室まで侵入して行き始めたのである。
そうなると、同僚の多くは、問題の主人公たる正隆に対して、何か不自然な、敬遠とも、嫌厭ともつかない表情で、相対するようにならずにはいない。
学生と同僚との、不安定な観察を身に感じる正隆は、心の中で、総ての人間共を侮蔑し、罵倒しながら、表面は平然と、蒼白い頬に冷笑的な薄笑いの皺を刻みながら、わざと、仮装した動じなさで、皆の、その眼前に姿を持ち出すのである。
全く、これは決して、正隆一人の不幸ではなかった。彼の周囲に生活して、程度の差こそあれ、多少とも彼と関係を持つ総ての者が、彼の気分の免れ得ない影響を受けた。
陰気な、外の人間の裡にある快活さや、率直さを一目で射殺すような正隆の眼を見ると、一人として、元の明快な気持を保っていることが出来なくなる。
妙にこじれて、焦々しい気分が、電波のように、魂から魂へと伝って、等しく同様の苦汁を嘗めさせられずにはいないのである。
こんなにして正隆の存在が、今まで相当の円滑さで流動していた生活の、大きな暗礁になったのを心付いた人々が、暗黙の中に、彼の自決を諷刺したのは、寧ろ当然とさえいわるべきものなのである。
かなり敏感な正隆は、勿論この雰囲気の持つ意向《インテンション》を知らない筈はない。彼は、言葉よりも明に、それ等の効果ある暗示を読んでいたのである。けれども、読んでいたに拘らず、正隆は、自他の責道具である教壇から、身を退けようとはしなかった。決心をしないばかりか、彼には、その計画さえもなかった。計画させないものは、単に正隆の持前である優柔不断というよりは、寧ろ、ぐっと居直って、胡座《あぐら》を掻いたような一種の意固地が、彼を、恐ろしい搾木に縛りつけてしまったのである。
そして、その意固地を掻き立てたものは、内攻に内攻を重ねた、彼の不安や焦躁の凝り固りである。
時が経るに連れて、人と人との相対的な、複雑な、微妙な、流転する心の折衝に疲れ切った正隆は、極度の困憊から、終に、あらゆる不幸は、皆、何人かの憎くも企図して置いた、一種の悪計によって齎されたものであると、確信するようになってしまったのである。床柱も、畳も、程よく寂びた離座敷にポツネンと坐りながら、正隆は、よく、その見えない敵に向って呪咀を投げた。
第一、正隆にとっては、このことの起りからが、疑問になって来た。これほど、言葉の不自由な、封建的な地方へ、何故、何の予備智識も持たない自分が、投げ込まれたのだろう。困るのは、解りきったことではないか。
その困るのを見て、皆が内心では侮蔑しながら、軽視し、邪魔物扱いにしながら、表面だけは、どこまでも、親切そうな、好意を持った仲間らしく扮《よそお》っている。それのみか、普通、こんな状態になれば、当然、
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