った。
 つい先頃まで、彼の記録する一点の差にも、大勢の学生達を悦ばせ、また落胆させた教授という位置に、今、換って自分が立つのだ、という想像は、思わず正隆の肩を竦めさせる。
 彼は授業の方針とか、理想とかいうことで、頭を悩ます種類の人間ではなかった。
 生来、虚弱な健康に宜しいというので、野天に晒されることの多い農科に籍を置いた正隆には、地味な研究に没頭するよりも、多勢の青年を前に並べて、得意の独逸語を、美しい発音で喋ることの方が、遙に大きな快感であったのである。まして、危く一二点の差で、及、落の決定するような学生が、私《ひそか》に教師を訪問して、寛大な採点を哀願するような場合を、自分の身近に置いて見ると、正隆は、或る亢奮を感じて、優者を自負する快い微笑が、幻のように、彼の蒼白い頬に上るのである。
 そんな時、彼は、正、不正で、行動の是非を判別する気分にはなっていなかった。
 ただ、当人には飽くまで、厳格な審判者として面しながら、いざという実際の場合に、相当の斟酌をしてやる、師らしい態度に自分を仮想して、我知らず幸福になる。正隆の好きな、仄温い人息れが、ほんのりと心を包むのである。
 けれども、愈々K県に到着して、彼の宿なる謡曲の師匠の家に落付いて見ると、正隆は、自ら湧き上って来る、後悔に似た感じを圧えることが出来なかった。
 それほど周囲は、予想外であった。予想以上の「他国」が、そろそろ四辺《あたり》を見廻しながら、近寄って来た彼を、ぐっと、無雑作に掴み込んでしまったのである。
 休暇の出入りにさえ、母未亡人の大業な歓迎に抱き取られ、送り出されていた正隆は、人々の冷淡な事務的感情に、先ず心を怖かされた。
 長い旅行の間、時を忘れた呑気さに委せて、私に予期していた歓びの言葉などは、誰の唇からも洩らされはしない。ただ、一人の、若い、物馴れない新任の教師を迎えた周囲の、仕来り通りの挨拶と、あとは、物珍らしい、穿鑿《せんさく》好きな注目とが、往来を通る、車夫の瞳からさえ射出されているばかりである。
 正隆の直覚に依れば、その注目も、決して、畏敬から湧き出しているものではないらしかった。
 骨格の逞しい、昔の大和民族の標本にもなりそうな若者達が、大声で喚きながら行来する往来を、弱々しい、強調していえば、この地方の小娘より果敢《はか》なく見える彼が、強いても容積をかさばらせるように傲然と歩く姿を、人々は、どんな気持で見ているか、それは正隆が、思いたくなくても思わずにはいられないほど明かなことである。
 殆ど無数の群に対してそんな感じを、第一の印象として得た正隆は、愈々、実物として、農学校の校舎を見、学生を、直接交渉の対象として眺めた時に、まるで、憤りに近いほどの、不平を感ぜずにはいられなかった。
 多少の想像を色づけて描いていた校舎は、煉瓦造りどころか、古び切った木造で、それもようよう土台が崩れないというばかりの荒屋である。その雨風に曝されて、骸骨のようになった部屋部屋には、大きな、あから顔の山賊のような学生達が、肩を聳し、眼を怒らせて控えているのである。
 それのみならず、彼等が喋る言葉は、何よりも正隆をおどかした。
 一目見ただけでも、弱い彼を威圧せずには置かない彼等の体力の異状な差は、更に不可解な彼等の方言を添えて、正隆を息も吐かせず、縮み上らせたのである。
 勿論正隆は、K県が、特殊な方言を持っていることは知っていた。
 けれども、東京に生れて育った正隆は、方言に就ては、惨めなほど無智であった。またその無智であることを、都会人が持つらしい淡い誇りで認めていた彼は、今、実際の場面にぶつかって、少からず面喰うのである。
 一方からいえば、自分の経験から、学生だけは少くとも、標準語を使うだろうと高を束《くく》って、安じていた楽観が、現在彼等が喋る、妙に抑揚の強い、丸い、男性的であると同時に、何か原始的な気分を持った言葉によって、見事に裏切られたことになるのである。
 正隆は、完く、うんざりした、途方に暮れた、が、而し、そういって済む場合ではない。
 生れて始めての経験に逢おうとして、自分自身に対してさえ、安易な信任に落付いていられない正隆は、第一、外観の圧迫に、或る不安を感じさせられ、また、言葉の困難に遭遇して、殆ど張切れそうにまで、神経を緊張させた。同じ日本人でありながら、言葉が思うように通じない、それも、自分の云うことだけは、滞りなく先方に通じながら、相手の云うことを、明瞭に掴めないということは、単純な言葉の不自由より、更に、幾層倍か、不愉快なものであった。
 つまり、正隆は、自分の云うことは、いくらでも批評される位置にありながら、その批評を、隅から隅まで理解して、また批評を投げ返すことの出来ないのが、何よりも焦《いら》だたしいの
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