「あなたは――」
 信子夫人は、滑らかな頬にさっと血の色を上せた。
「妙なことばかりおっしゃるのね、私は存じませんわそんなこと」
「怒らないでくれよ、信子、願うから――」
 そろそろと逃げて行きそうになる夫人の指先を、確りと握りながら、身を引寄せるようにして、正隆は哀願した。
「憤らないでくれ、然し、ほんとに、お前は知らないの、誰からも頼まれないの? 信子、お願いだから、いっておくれ」
「存じません。――あなたは何を疑っていらっしゃるの、はっきりとおっしゃればよろしいのに」
「疑いやしない、――が、疑っているんだね、疑っちゃ悪いかえ、信子、俺はお前が可愛いのだよ。大切なのだよ、信子、だから俺は――お前に行かれるのが堪らない」
「どこへも行きは致しませんことよ、さあ、そんなことはやめにしてお休み遊ばせ」
 夜着をかけようとする夫人の両手を掴んで、正隆は起き上った。
「いい、構わない、大丈夫だ。それでね、信子、俺が何を知りたがっているんだか分るだろう? 俺は、お前が大切なのだ、お前がいなければ生きてもいられない、だから、お前は疑わないでも、お前の後にいる者を疑わずにはいられなくなるじゃあないか」
「何を、だからお疑いになるの?」
「解らないのか、誰かに頼まれやしないかと、さっきから云っているじゃあないか」
「誰のことをおっしゃるのそれは? うちの母?」
「それが分らないのだ。誰だか俺には分らない。だから訊くのじゃないか、信子、どうぞ、正直に云っておくれ、お前は、俺を愛してくれるか、一生一緒にいてくれるかえ、ほんとに、隠さず云っておくれ信子、俺が苦しんでいるのは、お前に解っているだろう」
「それは分っておりますわ、だけれど、あなたは――一体何をそんなに苦しがっていらっしゃるのよ」
「そら! もう解っていない。やはり分っちゃいない。だから、お前は俺の思うような返事をしてくれないのだ。信子、ほんとにお前は――」
 手を取られたまま、凝と伏目になった信子夫人の眉の間からは、「男らしくもない!」という憤りが、火花になって散りそうに見えた。正隆の得体の知れない疑いや焦躁に掻き乱された彼女の感情は、彼の顫える熱情を、裏返したような冷静、冷淡に冴え渡って、他人に向うより鋭い批判を、乱された良人の面上に注ぎかける。嫌厭が湧かずにはいられない。その嫌厭は、彼が、自分の良人であるという意識
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