の容貌に感動させられない女性のあるべきことは思っていなかった。感動されて、自分の価値に金箔をつけるだろうことを疑おうとはしなかった。また、実際、彼のために歌い、舞いした女達は、少くとも或る特殊な好もしさを、彼の美貌に捧げたことは事実なのである。
 それ故、まだ若い、そして美くしい尚子夫人を彼方に置いて考えると、正隆の脳裡には、何となく華かなエキサイティングな気分が漲って来るような心持がしていたのである。
 それはただ、気分だけではあった。が、いよいよ尚子夫人に近接して見て、彼女が、ただ彼の人格的価値にのみ目標を置いてい、従って、暫くの間に大方彼に払うべき尊敬の程度を知ったということが、正隆に、或る不満と、自暴自棄に似た気分を起させるのである。
 勿論、正隆は、夫人としての尚子が、絶対に不可犯的な態度であるべきことは、知っていた。けれども、一面からいうと、確実な彼等の愛を裏書するために、何でもないものとして現れた自分が、彼の自負心を、暗くするのである。この心持は微妙なものである。
 正隆は、決して、尚子夫人に、彼の位置が要する以上の注意を払って貰おうとは、強請するどころか、期待してもいなかった。彼は、なすべきことと、すべからざることとの境を、彼等家庭の清浄さに於てまで、割れた蹄を利用して跳び越えるほど、魂を失ってはいなかった。然し、若し、義一が、尚子夫人の愛に、些でも何等かの間隙を感じているのなら、あらゆる機会が、最も用心すべき機会《チャンス》が、二人の間に露わされている場合に、正隆を近づけることはなし得ないことではないであろう。

 その信愛の深さが、正隆に嘗ての結婚生活を想起させる。これほどの違い、同じ女性である尚子と信子、そしてまた、同じ男性である、自分と義一、同じ天の下に、同じ日を仰ぎながら、幸福はかくまで大きな差を持っている――。
 ここで、正隆は、悪魔的な冷笑を浮べた。あれほど、互に信じ合っている彼等の間に、一寸割って入って、今まであれほど、確実に彼等のものらしく見えていた幸福の殿堂を、サムソンのような腕の力で、打ち砕いて見たら、どんなだろう。
 尚子夫人を、我ものにして、擁しながら、絶望して髪をむしる義一を見下したらどうだろう。どうだろう――そう思ううちに、正隆は、激しい悔恨に魂を掴まれて、サーカスティックな嘲笑を消してしまう。
 この時、道義的な不安と
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