参詣人の大群は、日和下駄をはき、真新しい白綿ネルの腰巻きをはためかせ、従順にかたまって動いているが、あの夥しい顔、顔が一つも目に入らず、黄色や牡丹色の徽章ばっかりが灰色の上に浮立ち動いているのは、どうしたものだろう。数が多すぎるばかりでなく、これらの善男善女は一様に或る熱心と放心とのまじり合った表情の中に没せられていて、一人一人の人間らしい目鼻だちの活躍する以前の状態におかれているのであると見える。花じるしばかりで顔や眼のない人間の群は眺めていて悲しみを感じさせた。
善光寺では本堂の横手に「十銭から御普請のお手伝いを願います」と立札を立てている。お札所のようなところで御屋根銅板一枚一円と勧進している。銅板に墨で住所氏名を書いた見本が並べられている。モーニングを着て老妻をつれた年寄の男が、紋付羽織の案内人にそこへ惰勢的に引こまれている。
小豆島の村にも八十八ヵ所のお札所があり、そこの第一番のお札所を建て直すとき、やっぱりこういう風に、屋根瓦一枚十銭、銅板一円と勧進したそうである。お金を出したひとは、みんな自分の名が書かれている瓦や銅で、寺が建立されると素朴に信じているのであろう。しかし、瓦や銅板に墨で書かれた住所や氏名は、程なくそれを書いた者の手で苦もなく洗われてしまったのである。
こうして、蚕を飼ってため、糸をひいてためたへそくり[#「へそくり」に傍点]を微妙な道ゆきで吸いとられつつ、人々は渋の温泉や上林の電鉄ホテルにのぼって来て一泊をする。
温泉場を貫いて往復する自動車は、どれも泥よけをつけていない。長野県ではそれでよい規則なのかしら。おとといのような泥濘《ぬかるみ》になると、おそろしく泥の飛沫をはじきとばす。櫛比した宿屋と宿屋との軒のあわいを、乗合自動車がすれすれに通るのであるから、太い木綿縞のドテラの上に小さい丸髷の後姿で、横から見ると、ドテラになってもなおその襟に大輪の黄菊をつけている一群は、あわてて一列縦隊をつくり、宿屋の店先へすりついて、のろのろと進むのである。
駅の横手に林檎畑があった。背面の濃い杉山には白い靄が流れている雨の晴れ間に、濡れた林檎が枝もたわわに色づいており、山内劇場と染め出した浅黄の幟が、野菜畑のあぜに立っていた。
[#地付き]〔一九三六年十一月〕
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和5
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング