に心地よくひろく高くはねとばされて、その後四年たって面上に落ちかかって来たときは、その震動の激しさで、外ならぬその発言者が顛動的上下動に身をさらすこととなったのである。
 文学にあらわれたこの深淵は一般に微妙な時代的翳をなげていて、現代小説では人間の社会的な生活の物語と所謂《いわゆる》生態描写との本質上の区別がぼやかされて来ているし歴史小説の分野では、時代と環境との客観的意義の評価を見直すことでは前進しつつ、そこにゆきかける時代の人間の積極なものとの関係の分析と意義とを従の関係におくことではやはり現代の文学の敗北の投影がみられる。そして、評論の面では、誤った文学の政論化功用論への対症として、文学の本質に再び一般の理解を据え直し、云わば文学とはどういうものかということについて語り直されることが必要であるという努力の方向がみられる。
 これまでとはちがう意味での文学的啓蒙が日本の文化にとってどんなに必要かということは、二年前ともかく知性の作家と称して売れた阿部知二氏の売れゆきは去年でぐっと減って、島木健作氏さえ本年にかけて石川達三氏に売れゆきを隔絶的に凌駕されているという、一応文学以外の現象からも示されている。文学常識の急激な落潮、日本文化の低下の激甚さはもっと注目されなければならなかった本年の問題である。
 評論のそういう努力の方向にかかわらず、そこにも困難と混迷の時代的な色がある。例えば作家研究を飽く迄文学の中で行おうとする正常な意企をもつ評論家が作家のタイプに関心をひかれて、タイプの共通にかかわらずそこに模する本質的なものについて余り注目を深めなかったり、歪曲された功用論への是正としての芸術本質論の方法において、文学の経た歴史の刻みを逆に辿る形をより強く示めさざるを得なかったような現象は、今日の紛糾を明日へ向って勁《つよ》く掴む歴史的な感覚の弱さでは小説の弱さに通ずるものとして、私たちを深く省みさせる点だろうと思う。
 現代文学が波瀾をしのいで成長するには、過去という語感でなく明日へという感覚での客観的な健全な歴史感で今日が把握され、その情熱の裡に創造力がはぐくまれてゆくしかないだろうと思う。そして、そのような可能は、作品の水平動と作家の上下動との個々に目をうばわれず、それを総括して現代文学史の一頁によみとろうとする努力にもかかっていると思う。[#地付き]〔一九四〇年十二月〕



底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年4月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「早稲田大学新聞」
   1940(昭和15)年12月18日号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
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