運動を示し、とび上ったり落ちたり、そのことの重さで益々作品は平たくおしつぶしてゆくような奇妙な姿が現れた。
或る種の作家にとっては一人の人の現実の上にこの動きの分裂が顕著であるし、今日の文学全般を瞰《み》れば、客観的に一つの目立つ現象として作家と作品との関係について語るべき点となって来ている。
今年のしめくくりとして考察するなら、私たちは慎重に、この上下動と水平動との間にある角度の本質を見きわめなければならないのではあるまいか。
そこに或る開き、殆ど直角の開きが存在するということを視るだけでは不足と思う。二つの運動の間で揉まれひしゃげたのは外ならぬ文学であり、自分との真の統一で作品を生むことで動いて行こうとする作家の、年齢や経験にかかわらない歴史的な苦悩の原因もそこに潜められているのである。
日本の社会の歴史が世界史的な規模で変る時期に面している事実は誰の目にも明らかなことだが、文学はそれにつれてどんな新たな誕生をしなければならないかということになると、従来の作家の世界に現実を歴史からみる実力が欠けていた悲惨が大きく結果をみせて来た。新しい日本というものの目安からごく概念的に一方的に下される過去の文学への批判の性質を噛みわけて文学の問題として摂取成長してゆくより先、作家というものの文化的存在の可能不可能、ひいてはたつきの問題へ性急に迫って現れて、そこで作品とは切りはなれた作家の上下動が見られるということになった。
従ってその動きでは、雷の親のうつ太鼓を雷の子どもも自分の小太鼓でうちたたく姿があらわれ、文学の重く痛切な流れは左右の岸を洗いつつ自身の流れに沿うて流れざるを得ない形なのである。
現代文学の中にあらわれているこの大きく深い淵、角度のひらきを、その現実の意味の大きさ、深さそのものに於て把握してその本質をつきつめ会得することで、明日の文学はみずからの前進をしなければならないのであろうと思う。何故なら、作家と作品との間にそういう甚しい分裂が生じたのは、この数年来文学の世界に真の現実諸関係を生かそうとせず、作家の恣意によって風俗の一断面を自身の鏡の下において眺めたり、思念の断片を一つの世界に拡大して見たりして来ていた文学への云ってみれば現実の復讐であるから、文学の世界に現実をどうみるかというような考えは無用であると云われた四年ほど前の言葉の唾は、余り自由
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