必然な結果のあらわれであったといえよう。報告文学がそのものとして独自の人間記録の価値をもって文学を豊かならしめ得るためには、一方に文学の各ジャンルの方法が芸術の自主性において確立されていなければならない。当時のように、文学全体が帰趨を失い自主的な対象と方法とを見失っていたような時期、そこにある現実の特殊さへの関心と、政論的な作家の行動性から報告文学へとりつかれたとしても、そこに文学として得るものが多くなかったのは、現実の必然の結果であったと云えると思われる。
翌十三年八月になって『改造』に発表された火野葦平の「麦と兵隊」は、これまで現れた作家の報告文学とは全く異った戦場からの身をもっての経験の報告として一般に甚大な感銘を与えたものであった。この作家は、他の何人かの作家と共に応召して戦野に赴いた一人であり、応召までの文学的経験もあって、その「糞尿譚」は文芸春秋社の芥川賞に当選した。「糞尿譚」は糞尿汲取の利権をめぐる地方の小都市の政党的軋轢を題材として、文章の性格は説話体であり、石坂洋次郎などの文章の肉体と相通じた一種のねっとりとした線の太さ、グロテスクな味いを持ったものであった。題材は社会的な素材を捉えながら文学としての特質はその作者の持味めいたものに置かれているというのも、当時の作品らしかった。「麦と兵隊」は、この作家が戦場で報道部員として置かれた条件を最もよく生かした成果の一つであったと思われる。この記録はあくまで小説ではない記述としての立前で書かれており、一兵士としての見聞と人間火野としての自然の感情とがそれぞれに盛られている。従って、戦場の光景はそのものの即物的な現実性で読者の感銘に迫って来るし、一方作者によって絶えず意識され表明されている人間自然の情感というものはその描かれている世界への近接を感じさせる十分の効果をもっていた。この二つの要素が作者火野によって常に意識されていることは、この作につづいて書かれた「土と兵隊」、「花と兵隊」等にも一貫して認められる。しかしながらこの二つの要素への意識はどちらかといえば素朴な両立の形で存在していて、その意識は文章の独特な人間的文学的ポーズを感じさせる。更に私たちの注意を惹かれることは、火野の文章のあらゆる場合、戦場の異常性というものが抑えられて描かれている点である。人間が、どのような強烈な刺戟の中にも馴らされて生きるものであるのは一つの現実であるけれども、馴らされるまでに内外から蒙る衝撃と思考の再編成の姿は、人間の生活的ドキュメントであろうけれど、火野の記録にこの歴史から照り返される人間精神の一契機は、語られていないのである。
日清・日露の時代とは比較にならず文化戦の意義は広汎に自覚されていて、作家の現地派遣も新しい時代の要求の方向を示すものである。桜井忠温は日露の時代が生んだ一種の戦場文筆家であるが、この人の文章にもやはり火野と同様の素朴な自然人の感情と兵士の立場とが二つのものとしてのまま現れている。そして同じく戦場の異常性というものはその表現の上に極めて抑えられている。文化を動員する方法は大きい変化を示しているにかかわらず、戦場文学ともいうべき火野の諸作が、本質的には桜井忠温の現実の反映のし方から決して三十有余年の人間知性の深化を語っていないというのは、如何なる理由によるのだろう。
文学としてはこれらの問題を含みつつも、火野の文章が世上に伝えた波動の大きさは正に、銃後の心理を思わせるものがあった。
同じ時に、上田広の「鮑慶郷」という小説が発表された。火野の文章と対比的に世評に上ったが、前者が生々しい戦場の記録として多くの感銘を与えたに反して、上田広のこの小説は、同じ感銘では受け取られなかった。「鮑慶郷」に於て作者は、戦争から一つのテーマを捉え来って、それを小説に纏めるという、作者の日々の条件からみれば実に驚くべき文学的努力を試みているのである。そして小説の様式も従来の小説というものの仕来りに準じている。読者は、作者の生きている境遇の烈しさをおのずから念頭においているから、題材だけ異ってあとは机の上でも書けそうな小説に面して、ある物足りなさと疑問とを感じたのは肯ける。戦争の間にそれを扱った小説が書けるか書けないかということを軽々に判断し得まいが、上田広の文学的意図と努力が何かの物足りなさを一般に与えたことは幾つかの理由をもっているだろう。最も重大なまた興味ある理由の一つは、戦争という巨大複雑な動きに対して、この作者の捉えたテーマは何といっても小さく浅いという印象を与えたことであった。作者一個の才能とか資質とかいう以外に、このことは現代文学が自身の歴史をどこまで文学の対象とし得る能力をもっているかという点で、文学の内と外とから考えられる課題であると思う。
このようにして、一方に戦場或いは戦争の文学が現れたが、そのことは直ちに当時の文学的活動の全方向がそちらに向けられたという意味にはならなかった。事変の始め一部の作家は動揺して文学の仕事を捨てるべき時ではないかというような判断の混乱を示したが、その他の大部分の作家たちは、文学本来の意味と任務とを守って、兎も角仕事をし続けてゆくという心理にあった。その意味では、火野の諸作も幾多のルポルタージュも文学の基調を一変させるものではなかった。それらのものと、従来の文学とはそれぞれのものとしてありつづけたのである。
ところが、この年の初頭に一部の指導的な学者・文筆家が自由を失い、また作家のある者が作品発表の場面を封じられた事実は、文学の本質というよりも一層直接な形で作家・評論家の社会的動向に影響した。顧れば昭和九年「不安の文学」がいわれた時代、日本文学は歴史的な自身の底を意識したのであったが、それは何といっても文学精神の課題に於てであった。更に二年後の衝撃的な事件は、文化の危機を一般の問題として自覚させた。この時に到って作家の身辺に迫った一つの空気は前の二つの経験よりはもっとむきだしの形で生存の問題にも拘るものとして現れた。一つの息を呑んだような暗い緊張が漲ったのである。
石川達三の小説が軍事的な意味から忌諱《きき》に触れたのもこの年の始めであった。文学のこととしてみれば、その作品は、当時の文学精神を強く支配し始めていた所謂意欲的な創作意図の一典型としてみられる性質の作品であった。「蒼氓」をもって現れたこの作者は、その小説でまだ何人も試みなかった「生きている兵隊」を描き出そうとしたのであろうが、作品の現実は、それとは逆に如何にも文壇的野望とでもいうようなものの横溢したものとなっていた。作者はその一二年来文学及び一般の文化人の間で論議されながら時代的の混迷に陥って思想的成長の出口を見失っていた知性の問題、科学性の問題、人間性の問題などを作品の意図的主題としてはっきりした計画のもとに携帯して現地へ赴いた。そこでの現実の見聞をもって作品の細部を埋め、そのことであるリアリティーを創り出しつつ、こちらから携帯して行った諸問題を背負わせるにふさわしい人物を兵の中に捉え、全く観念の側から人間を動かして、結論的にはそれらの観念上の諸問題が人間の動物的な生存力の深みに吸い込まれてしまうという過程を語っているのであった。
人間の問題を生活の現実の中から捉えず、観念の中にみて、それで人間を支配しようとする傾向は、昭和初頭以後の文学に共通な一性格であるが、この作品には実に色濃くその特徴が滲み出していて、作者が自身の内面的モティーヴなしに意図の上でだけ作品の世界を支配してゆく創作態度が目立っている。
文学が自立性を失って、ほんとうの意味で作家の生活感情からの動機なしにつくられてゆくこの気風は、当時世相を蔽うた一種の息苦しい不安と結びついて、作家の動きに顕著な心理を現した。かつての純文学の作家・評論家が自己への信頼を失うとともに文学の外の強い力へ己を託した姿は先に触れた通りである。当時は、新しく登場した作家として「沃土」を書いた和田伝、「鶯」を発表した伊藤永之介等の作家があり、「あらがね」で鉱山の生活を描こうとした間宮茂輔等があった。農村を題材として和田、伊藤の作家が活動し始めたには、前年からの社会的題材への要望、作品の世界の多様化の欲求が一つの動機をなしていたのであろうが、それらの作品が好評を博したことは、当時の官民協力の気風と結びつき銃後の農村の重要性を文学も反映させなければならないという立前と結合して、官製の農民文学懇話会結成の気運を齎した。その懇話会賞も制定され、その名の叢書も刊行され、それらの小説集の表紙には時の農林大臣有馬頼寧の写真が帯封の装飾として使われるという前例のない有様を呈した。
近代及び現代の日本文学の中で、農民文学の占めて来た位置とその消長の跡とは、日本の社会と文化の成立の歴史と照しあわせてさまざまの感想を惹きおこす問題だと思う。日本が農業国であって、その独特な条件の上に明治の新文化が開花させられたのであるが、文学に於いては、長塚節の「土」を一つの典型とするのみで、土の文学を唱道する作家たちの活動や大正年代に吉江喬松・中村星湖・犬田卯等によってつくられた農民文学会の活動などが、特にめざましい文学上の収穫を齎して来ていないことは、注目すべきことである。農民文学のかような歴史の断続とそのみのりの或る困難さは、農民生活と土とに心を惹かれた作者たちに、日本の農村・農民の社会的具体性が十分明瞭に把握されず、ある人々は自然への愛好の表現の一面として、ある人は近代文化の都会性へのアンティテーゼとして一種のモラルの見地から農民文学に近づいていたためでもあったと思われる。プロレタリア文学は、農民が土との関係の中で置かれている歴史の現実に触れて、農民自身による生活表現としての農民文学を導き出そうとしたし、その創作方法では農民を文学の外にある読者として見ず、作品の真実の対象として扱おうとした。
今、一つのグループを持って現れた農民文学が、農民文学として注目されたよりもむしろそのグループの新しい動向の方が問題とされたということは、争われない時勢の一表現であったのだろうか。このグループの作家たちが役所に使われる者ででもあるかのように「某々氏、農民文学懇話会の依嘱により何々地方へ視察旅行に赴く。」というような表現で消息を書かれた雰囲気も類のないことの一つであった。
文学の外の力との経緯からそのような動きを示した当時の農民文学がその作品の世界にどんな誠実をもって日本の農民の複雑な姿を描いたかといえば、この問いはあまり満足な答を得難い状勢であった。農民作家としての和田伝にしろ、伊藤永之介にしろ、真の農民の生活的現実をその文学に生かすには、謂わばあまりに当代の作家らしさを身につけすぎた人々であり、創作態度にはやはり或る観念化がつきまとった。これらの作家は人間が如何なる条件に存在するかというその諸条件を書かなければならないという文学思想に立って農民文学にも対したのであったが、それらの諸条件を描くという場合注目されることは、人間と存在条件との間の統一が求められていず、人間環境としての存在条件が実証の精神によって科学的に観察も分析もされていないという点である。とりもなおさず農民は農民自身の生活現実に於て扱われていず、作者たちが人間に対して抱いている観念を農民の存在条件の中に見出そうとする傾向に立ったのであった。それ故「沃土」のような成功した例外のほかの多くの和田の作品は、その農民心理が我執とか所有欲などを本能にまで還元された上で、その葛藤を特定の条件によって設定して、その筋の上に発展させられている。なお、考えさせられることは、作者の人間に対して抱いている観念そのものが、作者の地主としての農村に於ける生活のニュアンスから蒙っている影響や、人間の生きようというものに対して時局が要求している調子に或る反響を示している点である。さもなければ、どうして農民文学の暗さ明るさというようなことが、過去の農民文学の所謂暗さを否定する方向で当時あのように作品の側から
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