ていよう。
「軍服」は、何年ごろの、軍隊経験であったかということを作者は、はっきり書いていない。小さいことのようだが、これはこの作品の真実性のために大切である。もうすこしあとになってからの軍隊は、「軍服」よりもっとえらいところになったのだから。何年のこと、がはっきり示されると、日本じゅうのどっさりの読者の心に、俺の時代はこうだったと自分たちの軍隊生活の経験、野戦での経験が思い出されて来て、作品はいっそう感動をもってよまれる。同時に、どこかでまた、ああ小沢の時代はこうだったか、自分らはこんな思いをしたのだ、と、何か一つ書いてみたい心をめざまされる人もあるだろう。小説は、決して書かれて読まれるだけのものではない。生きているものである。読者に、何心なく、あるいは夢中ですぎた人生の一部をまた生き直させそのことで現実をよりゆたかに正確にその人のうちに構成するものである。
「町工場」という小説は、たとえていえば板塀にある節穴から、街頭をのぞいているようなもので、小さい穴からでも目の前を動いてゆく光景のうつりかわりはよく見えた。そういうなだらかさ、癖のないというだけのきりこみでは「軍服」の軍隊生活という特別な、常識はずれな生活の立体的な空気、感情の明暗、それに抵抗している主人公三吉の実感が濃くうき上って来ない。戦友としての人間らしいやさしさ、同時に行われる盗みっこ、要領、残酷、猥褻《わいせつ》、目的のない侮蔑。「軍服」の中でそういう軍隊生活の特色は皆とりあげられている。が、三吉の実感をとおして作者が腹の中でそれをえぐる、そのえぐりが浅くて、げびない代りに感銘がうすい。三吉の実感をわざと深刻ぶって、誇張して描写をすることは間違っている。けれども、一つ一つの具体的な事柄についてそれを描くとき作者が、その一つの現実は、日本の帝国主義の軍隊というものの組織においてどういう本質のものであったか、それは後に至ってどこまでひどく非人道なものになったかということについて、にらみを利かせて、三吉の実感をじーっとそこへすえて描いてゆけば、表現のおだやかさはそのまま恐ろしいリアルな感銘をもって来る。三吉の実感と経験のわくのなかに作者も同居していては弱い。作者は表面に出さないにらみとして日本の軍隊というものの底までにらみとおす必要がある。「軍服」が字づらの反戦小説でないだけ、その具体性はつよく深く憤りま
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