ね》も立てず体をちぢめ、高く高く二つの眉をつり上げた。美しいところのある乙女の顔は急にまたびっくりした野兎のように必死な表情になった。客は思いがけない変化に、馬鹿らしいような、照れたような気になり覚えず真顔にかえって手を離し、やがて、
「!」
 舌打ちをするのであった。
 見習期間を入れて二十日ばかり働くと、乙女は「麗人座」をクビになった。いつまでたってもサービスを覚えないからと云うのである。
 勉が寝床の中へまで本をもって入りながら、
「サービスって、みんなどんなことをやるんだ?」
と、はじめてそのときになってきいた。
「――わかんない!」
 ウェーヴをかけた頭をふって、乙女は悄気《しょげ》た。
「わかんない!」と力をこめた云いかたが勉に四年前の乙女と自分とを思い起させた。
 硝子障子のところに「豚肉アリマス」と書いた紙を貼り出した肉屋が、A市の端れにあり、乙女はそこの娘であった。勉の従弟が重い眼病で、A市の眼科に入院したとき、その病院の手伝いとして乙女が働いていた。二人は段々口をきくようになり、郵便局に勤めていた勉は、「戦旗」などをかしてよました。乙女は小学を出たばかりだが、注意深く興味を示して読んだ。いろいろ本をかりて読み、或るとき、何と思いちがいしたかマルクスの「資本論」をかしてくれと云った。五日ばかりすると、まだ下げ髪にしていた乙女が、小鼻に汗の粒を出してその本を患者の室へ返しに来た。
「――わかった?」
 勉が、つい特長ある口元をゆるめ笑顔になって訊いた。そのとき乙女は、額からとび抜けそうに長い眉をつり上げ、二人とも小柄ながら、乙女よりは三四寸上にある勉の顔を見上げて、
「――わかんない!」
 力をこめ首をふって、今云ったように云ったのであった。
 勉は忘れていたが、二人がいよいよ結婚するとき、勉は牛や馬を貰うのではないから「のし紙」など親にやるに及ばぬと頑ばり、乙女の母親は、牛や馬でないからこそせめて「のし紙」一枚なりと親から出して貰いたいと泣いた。乙女は、いけないと云うなら、家を逃げ出すまでだと云って、もう東京に出ていた勉のところへ来たのであった。

 自分もいやだし、いやに思っているが仕方なく黙っている勉の気持をも察し、気苦労して乙女がとった金は、勉の室をかりると、あと十円お石の借金に入れられただけであった。
 勉を引越さすことが出来、乙女がほっと
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