不必要、自分に似合う似合わない、その他多くの購買者が必ず持つ私的条件を全く超えて、全くそのもののよしあし、価値を見極めようとするから。そして又、少し眼の肥えた観賞者なら、そう何から何までに感服はすまい。美しいものをしんから愛するものは、或る場合痴人のように寛大だ。然し或る時は、狂人のように潔癖だ。そして変な物を並べる商人を何かの形で思い知らせる。
のどかな漫歩者の上にも、午後の日は段々傾いて来る。
明るく西日のさす横通りで、壁に影を印しながら赤や碧の風船玉を売っていた小さい屋台も見えなくなった。何処からとなく靄のように、霧のように夕暮が迫って来た。
舗道に人通りがぐっと殖え、遙か迄見とおしのきいていた街路の目路がぼやけて来た。
空気の裡には交響楽のクレッセンドウのように都会の騒音が高まる。遽しく鳴らす電車のベルの音が、次第に濃くなる夕闇に閉じ罩められたように響き出すと、私の歩調は自ら速めになった。もう私の囲りでは、誰一人呑気に飾窓などを眺めている者はない。何処からこれ程の人々が吐き出されて来たか、大抵一人で、連があっても男は男同士、女は女づれの群が、四隅に離れて立った赤柱の下に数団、待ち遠しげな眼つきで自分の乗ろうとする電車の来る方角を眺めている。
ほんの一時間半も経てば、此十字街の有様はまるで変るだろう。如何にも東洋の夜らしく鋪道の傍に並んだ露店を素見しながら、煌らかな明りの裡を、派手な若い男女の組、幸福らしい親子づれがぞろぞろ賑やかに通るのだが、今は、一とき前の引潮だ。道傍で生れた浮浪人さえ此世には無い自分の家を慕わせる逢魔が時だ。
シャンシャン、シャンシャン。夕刊売の鈴の音が、帰心にせかれる行人の心に、果敢《はか》ない底さむさを与える。
ぽつり、ぽつり、彼方此方に瞬き始めた街燈の蒼白い光とともに、私は、いよいよいそいだ。が、目ざして行く停留場から、半丁程も手前に来た時、不図或るものを見つけ、私はそれとない様子で鋪道からそれた。
隙を見て雑踏する車道を突きり、例の桃色塗の料理店の下に立った。電車はまだ彼方の遠い角にも姿を現わさない。
群集の間から、私は、自分がそれて通った彼方側の街頭を眺めやった。
小刻みに上下に揺れ揺れ流れ動く人波の上に、此処からでも、婦人帽の白い羽毛飾が見えた。黒繻子の頂や縁も。
然しそれは、鋪道一体の流れに沿うて前か後に進みきる様子はなく、距離にしたら五六間もない空間で、前後左右に漂っている。
渦にでも捲かれているように、人波に逆らい七八歩も黒い頂を傾け浮いて行ったかと思うと、ひらりと白羽毛飾を向き更らせ、皆の来る方に動いている。が決して、十字街の此方に車道を踰《こ》えようとはしなかった。暫く鋪道の端れの一箇処で羽毛飾が揺れると見ているうちに、再び、気をとりなおしたように、痛々しく帽子の大きな縁をかしげて群集の間を新たな力で溯り始めるのだ。
その婦人帽の動作には、何とも云えず看る者の心を打つものがあった。苦しい程熱心な、疲れても疲れてはいられないと云う悲しい張が、特に、再び人群を溯ろうとし始める瞬間、私の心まで刺すのであった。
あの帽子の下には、恐らく一つの外国婦人の顔があるのだろう。何か売りでもしているらしい。
らしいと云うのは誤りだ。私は、すっかり知っているのだもの。
彼女は露西亜人だ。それも小露西亜の農民らしくがっしり小肥りな婦人ではなく、清げに瘠せた体に、蒼白い神経質な顔、同じように鋭い指。それに写真画帖のようなものを持ち、
「お買い下さい。いりません?」
買いと云う字に妙なアクセントをつけながら、笑顔とともに遠慮深く、一級の売ものをすすめているのだ。
見ていると――ほら、一人の鳥打帽の男が不自然な弧を描いて、一層低く彼の上に傾いた白羽毛飾の傍からどいた。次の通行人に頼んでいる。頼まれた若い女は顔を赧らめて断った。見なさい、男が二人、狡く露西亜婦人の背後をすりぬけた。彼女が声をかけようとした三人めの紳士は――。ほう何と云う素ばしこさ! するりと忽ち群集の中に紛れ込んでしまった。(彼方を向いてはいるが、私は彼女の唇に浮ぶ頼りない苦い微笑が見えるようだ。)が、それではいけない。彼女は気をひき立てる。又そろそろと、辛い頬笑みを用意する。
私がほんの子供の時、父が一冊の歌の譜を買ってくれた。百、英国の子供達が普通唱う唱歌を集めたものであったが、中に「私の奇麗な花を買って頂戴な」と云う歌謡があった。
きらきら瓦斯燈の煌く下に
小さい娘が 哀れな声で
私の奇麗な花を買って頂戴な と
呼びながら立っている。
歌詞の細かなところは忘れた。けれども、絶間ない通交人は、誰一人この小さい花売娘に見向きもしないで通りすぎる。それでも、未だ彼女は、
輝く瓦斯燈の下で
呼びながら立っている
私の奇麗な花を買って頂戴な と。
深い夕靄の空に広告塔の飾光《イルミネーション》がつややかに燦くにつれ、私の胸の中にはその謡の幼い、単調な、其故却って物悲しい音律が、ロシア婦人の帽子の動きに縺れて響いて来た。
其位なら何故、私は、彼女のそばによって、一つの銀貨と引かえに、不用な画帖を受けとってやらなかったか? 私は、先一度そうした。そして、もう二度とは繰返すまい感銘を受けたのであった。
彼女が、愛嬌に薄い頬につくる微笑が、どんなにその唇の隅で震えているか、私は目で見た。
背の低い私にかがみ込んで画本を示した彼女の眼が、どんなに飢えた、求める、人間ばなれのした光をもって私の瞳をのぞき込んだか。全体の上品な顔だちの中で光った眼の色は、殆ど私を恐れさせた。その眼色、その引つった唇が、僅か二十銭で変る、変りかたを見て愉快に思うには、私は少し多くの神経を持っているのだ。
憂鬱な気持になり、私は一二台、電車をやり過した。
都会の雑音は愈々膨れ拡った、荒々しい獣のように、私の目先を掠めて左右に黄色い電車や警笛をならす自動車が入り乱れて馳せ違う。ぱっと、一時に向う角の裁縫店の大飾窓に灯がついた。前に溜っていた群集は、俄に、見わけのつかない黒影のかたまりにとけ込んだ。
白い羽毛飾ばかりは、まだその中でも、今燈火の海に燦めき、忽ち人ごみの闇にまぎれて、見えがくれしている。まるで巣を失った鷺のように。――
ああ、その街は昼間歩いて見るとまるで別な処のように感じられた。
[#地付き]〔一九二三年十二月〕
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「八つの泉」
1923(大正12)年12月発行
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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