ではないか。
私は、頭《つむり》を一方に傾け我を忘れて佇んでいる青年のわきを、そっとすりぬけて街路に出た。
少し猫背の、古びた学生服の後姿を見て、誰が、あの軟かく溶け輝いて花の色を映していた二つの瞳を考えることが出来よう。
私は、ぼんやり飾窓の前に立って何かに眺め入っている自分やこの若者やの後姿が、行人の或る者にどんな印象を与えるか、よくわかっている。
自動車の厚い窓硝子の中から、ちらりと投げた視線に私の後姿を認めた富豪の愛らしい令嬢たちは、きっと、その刹那憐憫の交った軽侮を感じるだろう。彼女は女らしい自分流儀の直覚で、佇んでいる私の顔を正面から見たら、浅間しい程物慾しげな相貌を尖らせているだろうと思うから。又、黒衣黒帽のストイックは、其処に恐ろしい現代人の没落と地獄的な誘惑とを見たと思うまいものでもない。
彼には、現《うつつ》をぬかして眺めている私の様子がこの上もなく危険に思えるだろう。何故なら、彼那に見ている以上欲しいのに違いない。が、あの身なりで其は覚つかない。慾しい慾望と不可能と云う事実との間にどう心を落付けるかと云うところまで、推論して行く几帳面さを彼は持っているから。
ところが、率直に云って、どれも私の心持には当っていない。私や、私のような無籍者の美術批評家達は、ちっとも憐れまれる必要もなければ、あぶなかしがられるにも及ばない。
私共は、始めから何も買う気などはないのだ。美しいもの、愛らしいもの、珍しいもの、そう云う限りない都会の美的富の種々を自由に、負担なく眺め、其等の形、色、線と音との微妙な錯綜から湧き出て心の裡に流れ渡る快感、空想、美の又異った一つの分野の蓄積が、何より嬉しい私共の獲物なのだ。
人間の推移する興味を素早く見てとる商人達は、飽るまで仮令その商品がどんなに尊いものであろうと、彼等の飾窓には出して置かない。程よく、斬新な色調の織物、宝石の警抜な意匠、複雑な歯車、神秘的なまで単純な電気器具、各々の専門に従って置きかえる。
それ等の窓々を渡って眺めて行く私共は、東京と云う都市に流れ込み、流れ去る趣味の一番新しい断面をいつも見ているようなものではないだろうか。受身に私共の観賞を支配される形ではあるが、一都市が所有する美の蔵の公平な認識者、批評家として、趣味の浮浪人は暗黙の裡に重んぜられる当然の運命をもっている。何故なら、必要、不必要、自分に似合う似合わない、その他多くの購買者が必ず持つ私的条件を全く超えて、全くそのもののよしあし、価値を見極めようとするから。そして又、少し眼の肥えた観賞者なら、そう何から何までに感服はすまい。美しいものをしんから愛するものは、或る場合痴人のように寛大だ。然し或る時は、狂人のように潔癖だ。そして変な物を並べる商人を何かの形で思い知らせる。
のどかな漫歩者の上にも、午後の日は段々傾いて来る。
明るく西日のさす横通りで、壁に影を印しながら赤や碧の風船玉を売っていた小さい屋台も見えなくなった。何処からとなく靄のように、霧のように夕暮が迫って来た。
舗道に人通りがぐっと殖え、遙か迄見とおしのきいていた街路の目路がぼやけて来た。
空気の裡には交響楽のクレッセンドウのように都会の騒音が高まる。遽しく鳴らす電車のベルの音が、次第に濃くなる夕闇に閉じ罩められたように響き出すと、私の歩調は自ら速めになった。もう私の囲りでは、誰一人呑気に飾窓などを眺めている者はない。何処からこれ程の人々が吐き出されて来たか、大抵一人で、連があっても男は男同士、女は女づれの群が、四隅に離れて立った赤柱の下に数団、待ち遠しげな眼つきで自分の乗ろうとする電車の来る方角を眺めている。
ほんの一時間半も経てば、此十字街の有様はまるで変るだろう。如何にも東洋の夜らしく鋪道の傍に並んだ露店を素見しながら、煌らかな明りの裡を、派手な若い男女の組、幸福らしい親子づれがぞろぞろ賑やかに通るのだが、今は、一とき前の引潮だ。道傍で生れた浮浪人さえ此世には無い自分の家を慕わせる逢魔が時だ。
シャンシャン、シャンシャン。夕刊売の鈴の音が、帰心にせかれる行人の心に、果敢《はか》ない底さむさを与える。
ぽつり、ぽつり、彼方此方に瞬き始めた街燈の蒼白い光とともに、私は、いよいよいそいだ。が、目ざして行く停留場から、半丁程も手前に来た時、不図或るものを見つけ、私はそれとない様子で鋪道からそれた。
隙を見て雑踏する車道を突きり、例の桃色塗の料理店の下に立った。電車はまだ彼方の遠い角にも姿を現わさない。
群集の間から、私は、自分がそれて通った彼方側の街頭を眺めやった。
小刻みに上下に揺れ揺れ流れ動く人波の上に、此処からでも、婦人帽の白い羽毛飾が見えた。黒繻子の頂や縁も。
然しそれは、鋪道一体の流れに沿うて前か
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