後に進みきる様子はなく、距離にしたら五六間もない空間で、前後左右に漂っている。
渦にでも捲かれているように、人波に逆らい七八歩も黒い頂を傾け浮いて行ったかと思うと、ひらりと白羽毛飾を向き更らせ、皆の来る方に動いている。が決して、十字街の此方に車道を踰《こ》えようとはしなかった。暫く鋪道の端れの一箇処で羽毛飾が揺れると見ているうちに、再び、気をとりなおしたように、痛々しく帽子の大きな縁をかしげて群集の間を新たな力で溯り始めるのだ。
その婦人帽の動作には、何とも云えず看る者の心を打つものがあった。苦しい程熱心な、疲れても疲れてはいられないと云う悲しい張が、特に、再び人群を溯ろうとし始める瞬間、私の心まで刺すのであった。
あの帽子の下には、恐らく一つの外国婦人の顔があるのだろう。何か売りでもしているらしい。
らしいと云うのは誤りだ。私は、すっかり知っているのだもの。
彼女は露西亜人だ。それも小露西亜の農民らしくがっしり小肥りな婦人ではなく、清げに瘠せた体に、蒼白い神経質な顔、同じように鋭い指。それに写真画帖のようなものを持ち、
「お買い下さい。いりません?」
買いと云う字に妙なアクセントをつけながら、笑顔とともに遠慮深く、一級の売ものをすすめているのだ。
見ていると――ほら、一人の鳥打帽の男が不自然な弧を描いて、一層低く彼の上に傾いた白羽毛飾の傍からどいた。次の通行人に頼んでいる。頼まれた若い女は顔を赧らめて断った。見なさい、男が二人、狡く露西亜婦人の背後をすりぬけた。彼女が声をかけようとした三人めの紳士は――。ほう何と云う素ばしこさ! するりと忽ち群集の中に紛れ込んでしまった。(彼方を向いてはいるが、私は彼女の唇に浮ぶ頼りない苦い微笑が見えるようだ。)が、それではいけない。彼女は気をひき立てる。又そろそろと、辛い頬笑みを用意する。
私がほんの子供の時、父が一冊の歌の譜を買ってくれた。百、英国の子供達が普通唱う唱歌を集めたものであったが、中に「私の奇麗な花を買って頂戴な」と云う歌謡があった。
きらきら瓦斯燈の煌く下に
小さい娘が 哀れな声で
私の奇麗な花を買って頂戴な と
呼びながら立っている。
歌詞の細かなところは忘れた。けれども、絶間ない通交人は、誰一人この小さい花売娘に見向きもしないで通りすぎる。それでも、未だ彼女は、
輝く瓦斯
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