障子、風呂場、台所の手入れに、大工をつれたり、自分で来たりして、助けて呉れたのである。自分は、掃除には一度も来られなかった。二十日以後から体の工合が悪く、熱を出して床について居た。炎天を、神経質になって家探しや買物に歩き廻ったため、疲労で弱ってしまったのである。
引越しの日は、晴れて暑い残暑の太陽が、広い駒込の通りを、かっと照して居た。
午前中本箱や夜具、トランク類を、石井の荷物自動車にのせ、英男が面白がって後につかまって送って行った。大工、善さん、おまつ等がAに手伝い、略《ほぼ》、片がついたと思う頃、自分は俥で出かけた。
始めて出来た自分等の家に行くのだけれども、母上に
「左様なら」
と云う心持にはなれない。改ったことを云うと、今にも涙がこぼれそうに感じ、二階に居られる処へ行って軽く
「行って参ります」
と云い、何も返事を得ない先に、いそいで玄関から俥に乗った。
始め、此家が今に空くのだそうだ、と云うので、赤門前の男から知らされ、まだ、人が住んで居た時分、或夜、見に来た事があった。
勿論中へは入れない。崖の上の狭い平地の隅から、低い板塀越しに、中をちらりと覗いた丈であった。後、もう一遍、来たことがある。いずれも夜であった。従って、周囲の有様や、家そのものの感じも、あまり露骨に見えなかった。
処が、只さえ万物を乾き、美しくなく見せる残暑の真昼の中で俥から下りると、自分は、殆ど、一種の極り悪さを感じる程、家は小さく、穢く異様に見えた。
武岳と云う医者の横と、葉茶屋の横との、三尺ばかりの曲り口も、如何にも貧弱に、裏店と云う感じを与える。
木戸が開いて居るので、庭へ廻り、ささくれた廊下や、赤土で、かさかさな庭を見、此が自分の家になるのかと、怪しいような心持さえした。
H町に暮して居た種々な、ややアリストクラットな趣味や脆弱さが抜けて居ないので、自分は、静に生活を冥想する場合には、予想し得ないような、階級の差別感に打たれたのであった。
いきなり格子を開けると玄関になるのを妙に思い、当惑したような微笑を漂せ乍ら、本棚の並んだ八畳を見た。
Aは、重い棚を動かし乍ら
「どう? 気に入りますか?」
と訊いた。彼の姿を見、自分は、種々なこだわりを忘れて
「結構じゃあないの?」
と云った。
「まだ馴れないから変だけれども、段々よくなるでしょう」
「随分、よく日が当りますね。H町より乾いて、お涼しゅうございましょう」
まつが、雑巾を持ち乍ら、庭を見る。成程、気がつかなかったら家は西向で、午後になると、日が、真正面から座敷一杯に差し込むのである。
困ったことだ、と思った。自分は、ひどく眩ゆいのを嫌う。どうするか、と案じた。が、もう、それを云っても仕方がない。
動くと気分悪く、神経的嘔気を催すので、部屋の敷居の処に倚りかかり、指図をして、近所の蕎麦屋へ行かせた。
職人にやる金を包み、皆に蕎麦を食べさせ、裏の家と医者の家に配り終ったのは、もう夕暮に近かった。
H町に居ては、見られない鮮やかな夕映が、一目で遠く見渡せる。
崖に面した四尺ばかりの塀際には背の高い「ひば」が四本一列に植って居る。その、デリケートな葉が黒く浮立ち、華やかな彼方の色彩に黒レースをかけたように優雅である。
まつを、いつまでも止めて置くことは出来ないので、我々の夕飯の仕度に鰻を云いつけさせて、帰した。
急に四辺が、ひっそりとする。
自分は思わず、真心をこめてAをエムブレスした。何と云う感銘の深い夕暮だろう。
Aはおなかが空いて居るのを知り、いつまでも食事が出来ないのを気の毒に思った。やっと、八時頃、命じたものが来る。
自分は、八畳の灯の下に、一閑張の小机を出し、白く糊の新らしいサビエットを拡げ、夕餐の用意をした。お茶を飲もうとする茶碗も、箸箱も、皆、今度新らしく二人で買い調えたものだ。
卓子に向って坐ると、二人は、感動し、我知らず祈を捧げる心持になった。
今から、自分達の、二人きりの、生活が始るのだ。どうぞ幸福であるように。彼も、自分も幸福であるように。――
箸をとったら、鰻は、まるで油紙のようにくさい。危く自分は感傷的になりかかった。
Aが、又蕎麦屋へ行かなければならなかった。夕飯を、兎も角済したのは九時過ぎて居たろうか。
引越の前から工合が悪かったので、自分は、又、翌日から床について仕舞った。
H町からまつに来て貰い、翌晩は、ひどく神経的になって、細井さんを呼ぶほどであった。
Aは、さぞ心配されただろう。
然し、其那に長くは悪くなかった。四五日で起きた。
或境遇に、人間が馴致されると云うことは、人々は理論として明に知り、また客観的観察として、屡々口にする。而も、其当人が、自己が如何那境遇を持ち、それに自己の性格のどんな部
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