商売は道によってかしこし
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)[#地付き]〔一九四七年一月〕
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 商売は道によってかしこし。こういう言葉がある。さすが専門にそれを研究しているものは見事なものだ、という意味もいくらかふくまれているだろう。しかし、この言葉が云われるとき人々はその口辺に一寸薄笑いを浮べる。からくりはお手のものというわかり合いが互の間にとりかわされるのが普通だからである。
 小説のことに関して、こんな話し出しかたは奇妙のようにも見える。けれども、出版という企業がはっきり、利益を目当としたものとして行われている今日の社会では、出版企業につながる文学行動の一つのあらわれとしての小説にも、商売的いきさつは、かかわって来ざるを得ない。原稿が売れないで結構と考えている作家は一人もいない。買い手がなくても結構と云って書籍を出版し、雑誌の編集をしている人は一人もいない。その間に、競争がある。その競争に勝って一つでも一冊でも多く売れることが、利益を増すことであり、利益を増すような作家が要求されて来るのである。
 日本で大正頃から出版企業が膨脹したにつれて、文学・小説の創作水準に分裂がおこった。一方には、日本の全人口からみれば少い一部の文学好きの人々、教養の深い人々のために、純文学作品の発表・出版があり、一方では、より多くの大衆が、労働から解放されたときの気まぎらしのため、昔の庶民が寄席をたのしんだように、ごろりと寝ころがってすごす時間に読ませて儲けるようにと、いわゆる大衆小説が存在するようになった。同じウナギで儲けるにしろ、一方に大名式の「小松」というような店があり、一方に養殖ウナギのくさいのを「大衆的」にたべさせて儲けるニコウがあったのと同じようなものであった。

 純文学の作品をのせる雑誌は多く綜合雑誌で、政治、社会、経済等についての論文なども学者や名士の力作がのせられた。大衆小説のどっさりのる雑誌は講談社のキングその他新聞社、博文館などの娯楽雑誌で、そういう雑誌では同じ経済記事にしろ勤労大衆がそれで生活している労働賃銀とはどういう仕組みのものであるか、働く時間とその賃銀の関係はどうなっているか、というような論文は決してのせなかった。利まわりのよい貯金の工夫。月賦で家を建てる方法。そんな風な経済記事が扱われ、政治にしろ、そのときの大臣連の出世物語、政界内幕話という工合であった。戦争がはじまったとき、すべての浪花節、すべての映画、すべての流行唄、いわゆる大衆娯楽の全部が戦争宣伝に動員された。大衆文学・大衆小説はその先頭に立った。原稿紙に香水を匂わせるという優にやさしい堤千代も、吉屋信子も、林芙美子も、女の作家ながらその方面の活躍では目ざましかった。
 このように文化が戦争の宣伝具とされた時期、いわゆる純文学はどういう過程を経たかと云えば、周知のとおり、人間本来のこころを映す文学は抹殺され、条理の立った批判は封ぜられ、遂に文化という人間だけがもっている精神活動の成果をあらわす高貴な字句さえ禁ぜられて綜合雑誌の或るものはつぶされたのであった。
 戦争で日本を破滅させた狂暴な権力は、こうして、一様に、純文学も大衆文学も潰してしまった。すべての人民が焼野の上に新しい民主日本をうち立てなければならなくなった。すべての人民が自分たちが主人となっての新生活を建設してゆくにふさわしい、自分たちの努力、よろこび、悲しみ、憎み、慰安を語る民主の文学が、生れ出るべき時期になった。古い純文学は、現実生活から特殊な文学的世界へ遊離してしまっていた薄弱さから旧特権とともに崩壊し、過去の大衆文学は特権者の利害のために無智におかれ従属におかれていたこれまでの民衆生活をふりすてると共に多数の人々にとって慰安のたねにもならなくなって来た筈なのである。
 ところが、今日の現実を見ると、私たちの心に浮んで来る文句がある。それがとりも直さず「商売は道によってかしこし」である。
 依然として、読ませて儲けるのが眼目である出版物は、猛烈な新円獲得の目的もあって、この頃はいわゆる大衆性を得るということを、エロティシズムに集注している傾きがある。

 戦争は人間性をころした。ましてや、微風のような異性の間の情味や生活の歓喜の一つの要素としての感覚・官能の解放は圧殺されていた。きょう私たちは人民が人民の主人となった解放のすがすがしさに、思わず邪魔な着物はぬぎすてて、風よふけ日よおどれと、裸身を衆目にさらしているのだろうか。ああ、これこそわれら働く若い男女の愛の希望と互にうなずける社会的解決があって、抱擁し接吻しているのだろうか。それとも、職業もない、空腹がある、そして幻滅が大きい。せめては、こん
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