にうちたたかれ、くやしい足でけられ、しかし遂にその上に数万人の女が泣きふした、その人間としての純潔について以外にはない。はじめから純潔は、天使的《エンジェリック》なものなんかではなかったのだ。男に対する女の性の純潔などという局限されたものでもなかった。マグダラのマリアの物語がこのことを示している。マグダラのマリアは、迫害されながら、迫害するものの欲望のみたして[#「みたして」に傍点]として生きる売笑婦であった。ローマの権力に対して譲歩しない批判者であった大工の息子のイエスは、彼の意見に同感し、行動をともにするようになった漁夫のペテロそのほかの素朴な人たちとともに、苦しみのなかに生きている一人の者として、マリアを正統な人間関係の中へおくようにした。教会流にマリアが「悔いあらため」、消極的、否定的に「きよきもの」となっていただけなら、どうして彼女が、第一に、甦ったイエスを見たという愛の幻想にとらわれたろう。彼女は、どういう苦悩を予感して、イエスの埃にまみれて痛い足を、あたためた香油にひたして洗い、その足を自分のゆたかに柔かな髪の毛で拭く、という限りなく思いやりにみたされた動作をしたろう。マグダラのマリアの物語の人間らしい美しさは、イエスと彼女との間に、世俗の男女のいきさつがなかったという、いわゆる「キリスト教的」な純潔さにあるのではない。男女のぬかるみにつっこまれて生きて来たマリアが、人間と人間との間にあり得る愛というものを知って、その信頼から湧く歓喜の深みへ、わが心と身とをなげ入れて生きるようになった、その純一さが、彼女についての物語に、いつも新鮮な感動を、おぼえさせるのである。伝説に語られている環境のなかで、青年イエスの心情を、最もリアルに理解することのできたものの一人は、社会の下づみで、現実にさらされて来たマリアであったのは当然だった。イエスとマリアとの間には、花の香とそのかおりを吹きおくるそよ風のように微妙な心のかよいがあったにしろ、マリアを純一にし、まじりけなく行動させたのは窮極において、彼女が人間の関係のうちに見出したまともなものへの献身であった。
正義、良心、恥を知る心などというものは何と現代に愚弄されているだろう。それだのに、なお、わたしたちには、しつこく、正しさを愛し、人間らしさを求めずにいられない心がのこされている。それは、なぜなのだろう。すこしは
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