、成田梅子、村上半子、景山英子らの活溌な動きがあったのだが、岸田俊子にしろ当時の自由党員中島長城と結婚してからは、自分の過去の政治活動をあまりよろこばしい回想とはしていない口吻であったことが語られている。俊子の生涯の活動ぶり、情熱の中心は、自分というものが身にもっている容色と才智との全部を男と平等なあるいは男を瞠若《どうじゃく》たらしめる女として表現してゆこうとする意欲に熱烈で、その面には徹底的であったらしいけれども、当時のおくれた無智におかれている同性に対しては決して暖い同情者啓蒙者であるといえなかった点も、今日から見ると、一種のおどろきに似た感情を与えられる。
明治三十二年というと中島湘煙の死ぬ二年前のことだが、その頃青柳有美が大磯の病床に彼女を訪問したときの湘煙の談話は、彼女の女性観をまざまざと示している。
有美はその時分女への悪口で攻撃されていたらしい。湘煙はいくらか同情気味で「私は実は女が大嫌いサ。」といっているのである。
「ドウも洒落な、かまわん所がないからナ……男ならどんな人でも大抵手には余さんが……女と来ると丸で呼吸が分らんでナ……どう向けて善いものやら、……トンと困るテ。遇うとつまらん外部ばかりの話をしてナ……ちっとも面白くないのだ。ドウも疲れるよ。一体女というものには少しも禅気がないからナ。女はみんな魔のさしてるものだよ。」
そして、女の仲間へゆくと自分がすっかり無言になって、非常に縮って、顔が熱くなって来て気が遠くなったような心持がして「この腕もトンと揮《ふる》えんてナ」と述懐している。僅か三十七歳ばかりの婦人の言葉としてきくと、これらの言葉づかいそのものさえ今日の女の心には珍奇に思える。ヨーロッパだからって女ばかりが集ってする話は同じことで、外国の夫婦喧嘩の多いことはおどろくばかりである。
「日本の家庭の方が遙に善いよ。殊に昔風の家庭の方がよいよ」と。
しかし、福沢諭吉はこの明治三十二年に六十六歳で「女大学評論」「新女大学」を発表し、貝原益軒流の女庭訓でしばられた日本の女の社会的な向上のために周密真摯な努力と具体策を示しているのである。
自身女性である中島湘煙が、なぜ女はみな魔がさしているような非条理におかれているかというその原因にまでふれ、沈潜して理解してゆこうとせず、かえって男の福沢諭吉が女のために懇切、現実的であったという事実
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