おこるのをいやがって、筆名は男のジョージ・エリオットとしてさえいる。ジェーン・オースティンにしても、イギリスの中流家庭で結婚ということについてどんなに打算や滑稽な大騒動を演じるかということを、諷刺的にその「誇りと偏見」の中に書いている。われわれのまわりでも、まだまだ結婚適齢期の娘をもった母親は、時にふれ、折にふれて眼の色を変えている。食べるものも食べないようにして箪笥を買ったり、着物を拵えたり、何時でも売物のように誰かが買いに来るというように待っている。「女のくせに」ということを男だけではなく女自身が云ってもいる。十九世紀にオースティンが非常に諷刺的に書いた状態は、封建的な風習の多くのこっている日本のなかにはまだつよく残っている。同じ十九世紀に、ポーランドの婦人作家オルゼシュコの書いた小説「寡婦マルタ」を、きょう戦争で一家の柱を失った婦人たちがよむとき、マルタの苦しい境遇は、そのまま自分たちの悲惨とあまりそっくりなのに驚かないものはなかろう。
 ところで日本の婦人は、歴史の中でどういう文学を作って来たのだろうか。わたしたちは万葉集というものをもっている。万葉集は当時のあらゆる階層の女の
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