駄目である。実際の可能を作って行かなければ、教育の民主化という問題は甚しい欺瞞となる。
すべての人は働くことができる。そうであるならば最低限の生活の安定がその勤労によって保たれ、勤労人民としての社会保護が確保されなければならない。そのような全人民の社会的な生きかたの要求、その実現の努力とともに、民主文学の可能性も拡大されるのである。労働時間と賃金の問題は、人民にとって、人間的生存の問題であり、文化の問題でもある。人間であれば時間によって命をきざまれている。その時間をその人と社会の幸福のためにつかうか、搾取の対象とされるかでは、本質的な運命のちがいが起る。これを否定するものがあるだろうか。
こういう文化・文学の問題にふれて六・三制の問題を、見直す必要がある。日本の国民学校六年の卒業生の実力が四年修業程度しかないことが、アメリカの教育視察団によって報告された。民主日本建設のために人民一般の知能水準の向上のために義務教育の年限を長くしなければならないとされ、文部省は六・三制ということをきめた。九年の義務教育と云わず六年と三年を分けて六・三制と考えている。何故一まとめに九年制といわないのだろうか。九年制にしてどの子供もその間は勉強出来るように国庫がその保証をしてやらなければこのインフレーションの中で月謝を払い御飯を食べさせ学用品を買ってやるということは益々貧困化して来ている親の多数にとって負担である。
文部省にこの実状がわかっていない筈はないのに、六・三と分けて、後の三年は通信教授だけでもいいということを法文化しようとしている。あとの三年は実際に学校へ行かないでもただ通信教授をうけただけで義務教育は終ったということになる。第一、初等中学三年という新しくふえた生徒のために学校が足りない、教師がない。教科書さえそろわない。しかも一応六年を終った年ごろで親の役に立つようになった子供は買出しの手つだいにも行ったりして困難な日々のやりくりにまきこまれ時間がない。戦災者、復員者、引揚者みんな困窮している人々は六年を終った子供を生計のための助手にしなければやりきれない場合が多い。工場へなり給仕になり店員になりやってせめて喰べるものだけは、何とかして雇主にもって貰いたいという非常に切迫した要求がある。現に職人のところで使われる小僧さんの姿が目立ってふえて来ている。ブリキヤとか大工とか
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