とか人間性というものがどんなにふみにじられたかということは細川忠興の妻ガラシアの悲壮な生涯の終りを見てもわかる。明智光秀の三女であったおたまの方はキリスト教を信仰してガラシアという洗礼名をもっていた。石田三成が大阪城によって、徳川家康に反抗しようとしたとき、徳川の側に立っていた細川忠興の妻であり、秀吉によって実家の一族を滅された光秀の娘であるガラシアは、大阪城へ入城を強要されたのを拒んで、屋しきに火をかけて、老臣に自分を刺させて死んだ。三十六歳の短い生涯の間に、おたまの方は、武門の女の人生の苦痛を味わいつくして、その生をとじたのであった。
 この時代には文学の創造者としての婦人は存在し得なくなった。この時代の特色ある文学として現れた謡曲の中に婦人は描かれるが、それは例えていえば物狂い――気狂いとか、愛情の絆によって、生きながら生霊《いきりょう》となり、また死んでも霊となって現れるような、切ない女の心に表現されている。当時の婦人はどんなに自分達の希望を殺して生きていたか、また殺させているという暗黙の恐怖が男たちの意識の底を流れていたかが解る。物狂いと云い、生霊、死霊《しりょう》と云い、そこでは普通でない人間に対する怖れがある。謡曲は僧侶の文学とされている。女のあわれな物語を、現代の闇商売で有閑的な生活に入った人々が唸っているのは、腹立たしく滑稽な絵図である。
 徳川家康が戦国時代に終止符をうって江戸の永くものうい三百年がはじまった。この時代の婦人の立場は「女大学」というもの一つを取上げただけで十分に理解することが出来る。徳川三百年と云えば、ひとことだけれども、そこから尾をひいていて今日私どもが解決しきっていない沢山の封建性についての問題がある。支那の儒教の精神を模倣して、封建時代には絶対に家が中心問題とされた。家風にあわざるものは去る。子供を生まねば去る。嫉妬ふかければ去る。七去の掟ということが貝原益軒の「女大学」のなかに堂々とあげられている。妻たるものは早く起きて遅く寝るべきである。女は食物におごってはいけない。この貝原益軒が養生訓をかいて、男の長寿のための秘訣をくどくど説明しているのを見くらべると、私たちは心からおどろかずにはいられない。眠り不足で栄養不良で体のつめたい女に、子を生まなければ去る、というむごたらしさはどうだろう。子のないのを女のせいばかりにする人に
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