いろの女の文学が女性によってかかれた。なかでも紫式部の名は群をぬいていて、「源氏物語」という名を知らないものはないけれども、その紫式部という婦人は何という本名だったのだろう。紫式部というよび名は宮廷のよび名である。大阪辺りの封建的な商家などで、女中さんの名前をお竹どんとかおうめどんにきめているところがあった。そういうふうな家では、小夜という娘もそこに働いているうちはお竹どんと呼ばれるが、宮中生活のよび名で宮中に召使われているものの名であった紫式部、清少納言、赤染衛門というのも、それぞれ使われているものとしての呼名である。紫式部が藤原の何々という個人の名前は歴史のなかへあらわれて来ない。清少納言も同様である。これまで日本歴史の家系譜の中にはっきり名が現われている婦人は藤原家も道長の一族で后や、中宮になったり王子の母となったりした女性だけである。美しきヘレネのように、藤原一族の権力争いのために利用価値のあるおくりもの、または賭けものであった婦人達だけが名前を書かれている。
源氏物語を書くだけの大きな文学上の才能と人生経験をもちながら現実の、婦人としての生活は男子なみでなかったということがよく判る。更級日記をかいた婦人も名がわかっていない。そして、この中流女性の生活をかいた更級日記には、不遇な親をもった中流女性が、不安な生活にもまれる姿が優美のうちにまざまざと描かれている。枕草子は非常に新鮮な色彩の感覚をもっている。青い葉の菖蒲に紫の花が咲いているのを代赭《たいしゃ》色の着物を着た舎人《とねり》が持って行く姿があざやかであるとか、月の夜に牛車に乗って行くとその轍《わだち》の下に、浅い水に映った月がくだけ水がきららと光るそれが面白い、と清少納言の美感は当時の宮廷生活者に珍しく動的である。感覚の新しさはマチスに見せてもびっくりするであろう。十一世紀の日本の作品とは信じまい。その清少納言という人は誰だったろうか、そして、どうなって一生を終ったかということも判らない。文学の歴史の中にさえ普通の個人の婦人の生活は残っていない。そのような当時の社会のなかで清少納言、紫式部そのほかの婦人がそのように文学作品を書いたという動機は何だったのだろうか。藤原家の権力争奪は烈しい伝統となっていて后や中宮に娘を送りこむときその親たちは、政治的権力を社光的場面で確保するために文学的才能のある宮女を
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