と仰言《おっしゃ》るのは、暮し方の心掛けですか。
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 そうでしょうねえ。私達の生きている心持ちと云うものは、面白い不思議なものね。自分をこめての現実をどこまで理解して行くかと云うこと、得て来たものでまた現実を更《か》えてゆくということは全く自分の努力なしにはあり得ないことですから、そう云う意味を生活というなら、毎日暮していても生活はしていないという生き方も実際にあるのです。映画一つ見ても見方はいろいろでしょう、せんだってうち、評判のよかった映画で「我が家の楽園」がありましたね、御覧になりましたか。あれはアメリカの映画の中で家庭というものが、これ迄になかった見方で扱われていた一つの例ではないでしょうか。これまで家庭が壊される悲劇をよく扱って来ているのだけれど、あれでは金はなくても銘々が好むところを発揮して営んでゆく家庭の楽園が、空想的にまで主張されており、従来の映画の中では、破壊者の役割に廻っていたお金持ちの事業家などでもあの映画の中では、その過程の楽園の喜びと機智に負けて譲歩するハピイエンドです。あれをどんな気持で皆さん御覧になったでしょう。
 ああ云う風に銘々の好むところで自由にやっていて而も団欒《だんらん》して行くということを、自分たちの家庭で実現出来ることとして楽しんで見たでしょうかそれとも全体として価のない作品だとお思いになったでしょうか。その二つの見方はどっちも、それだけの理由があると思います。他愛《たわい》のないという印象を与えたことも真《ほん》とうでしょう。何人かの女の人からそう云う批評を聞きました。その人たちはあれがアメリカで好評なのは何故でしょうと不満相に云いましたけれど、その何故でしょうというところに心を止めた問いを自分にも向けていた人はありませんでした。なんだ、つまらないという意味でも何故でしょうと云い棄ててしまうのと、一歩すすめてその先にあるものを解らして行きたいと思う心との間にある違いが、つまり心のおしゃれの可能である気持とない気持の違いだと思います。あの映画が現在のアメリカが経済的な行詰りを感じていながら、それを徹底的な方向で打開し得ず人々の心がまた現在自分たちの置かれている矛盾や困難を写実的にとりあげた作品を喜ばないような逃避的な気持にいる、その一面の現れがあの映画にでている訳でしょうが、判って見ればあの他愛
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