えたりしている。文学作品も多いけれども、はっきりそうとも云えない雑書風のものもまことに多い。
 数年来云われて来たインフレ出版の現象は、急速な社会全般の情勢のうつりかわりとともにこれ迄の文化伝統が変動しつつあることの一つの相貌として、云ってみればこれ迄出版業者にとって未開拓の地であった女性の世界へ次第に進出して来たのだと思える。
 豊田正子の「綴方教室」小川正子の「小島の春」などが、この波頭であった。これらの本は、文学では生産文学、素材主義の文学が現れて生活の実感のとぼしさで人々の心に飢渇を感じさせはじめた時、玄人のこしらえものよりも、素人の真実な生活からの記録がほしいという気持から、女子供の文章の真率の美がやや感傷的に評価されはじめたとき、あらわれて、出版部数の大さでも一つの記録をこしらえた本なのであった。
 今日では、同じ下らない本なら著書が若い女の方がいい、と何処かで誰かが云ってでもいるように、女性の著作が次から次へと出版される。本を出したら、という考えが若い女性の心に閃くとき、そこには万ガ[#「ガ」は小書き]一当ればという経済事情も伴って浮ぶようになって来ている。
 今日のこういう現象の複雑さでは、つまるところ儲けが眼目で本屋は当りそうな女の本をあさっているのだとばかり単純に云い切れないところがあるだろうと思う。
 この頃になって何故そんなに女性の書いた本に注意がひかれているのだろうか。女の書いた本というのは、どちらかというとまだめずらしい。それも理由の一つだろう。それとともに何となし社会の息づかいが乾いていて、何か素朴な、原形のままの人間感情のやさしさや、しなやかさや弾力を感じとりたくて、案外のような人も本を買っている。購買力が高まり、読書する人の層が全く従来の範囲から溢れて来ていることも明白で、そのことはとりも直さず、自分の腕で、自分でつかっていい金を稼ぐ若い男女の増大を示している。そしてこのことは、若い女性の生活にある種々の問題が、これまでより一層めいめいにはっきりと自覚されて来ている事実を語っているし、それらの問題が社会の中で普遍性をもった問題となって一般の目に映って来ていることをも語っていると思う。
 女性が女性として語ろうとしている本が消化されるのは、女性が置かれている新しい社会的な境遇について、自分たちにあるあれこれの問題について知りたい、自分
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