それで質問者が果して納得するものであろうかと、寧ろ不思議にさえ思われる。
ところが、いつぞや身の上相談の解答のこつ[#「こつ」に傍点]について興味ある言葉をきいた。それは、どうせ身の上相談に訴えて来るような女のひと達は、生活の上に自主性のない、決断力を欠いている人々である、だから余りはっきり社会的にそれを説明したって無駄であるし、また余りきっぱりした処置を示したところで却って喜ばず、新聞社としてもそういう解答は歓迎しない、まあ、当らずさわらずのところで納まるような妥協案を示すのが一番であるという意味であった。
この言葉は二重に私の心に感じさせるものがあった。身の上相談の解答者となる女の先輩達は、そのことによって或る程度まで自身の社会的名声というようなものをも拡大するのであるが、上述のような世渡りのこつ[#「こつ」に傍点]めいたものが必要とされ、結局は、女が同じ女の愚かさで食うということになる。そこには、今日の女の愚かさ低さの上に、その涙の上に資産をつくっている大衆作家の自信ある暮しぶりを眺める時のような、ある心の痛み、憤りがあるのである。
こういう半面に、「婦人の立場から」等には、素朴な表現や視野の不十分な明確さを示しながら、女として今日の社会に対し一般的に感じられている抗議が、案外健全なものの考え方、観かたの方向を暗示して語られている場合が決して尠くない。
折々婦人作家たちが、こういう場面で日常の社会問題をとりあげ、女としての土台から直接な気持で批判を行っているのは、今日同年輩の男の作家たちの社会時評とは遠い生活態度と対比して、様々の感想を喚びさまされる。
その国の進歩的な婦人作家たちが、その文筆活動の総体の何割を、文学以前の生活的な諸問題の究明のために費さなければならないかということで、凡そその国の社会情勢が推しはかれると思う。そして、その必要がどのような自由さで満され得ているかということで、その国の進歩性が推しはかられると思う。その点で、日本は今日の支那よりはおくれているのである。[#地付き]〔一九三七年五月〕
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
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